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幻燈紀行「岩窟の村」

冬になると訪れたい村がある。
その村は山を幾つも越えた所にあるので、中々に足が遠い。交通機関も不便である。

冬の日の数日を過ごすため、僕はその村に向かった。町からバスに乗って二時間かかる。
案の定途中で乗客は皆降りた。
寡黙なバスの運転手と寡黙な僕は黙々と山道を進んだ。

途中、運転手に一度だけ話しかけられた。
「お客さんは何をしに行きなさる?」

僕はなるべく丁重に返事を返した。
「冬になると、僕は何故かその村が恋しくなるのです。村をまとう温もりがそうさせるのでしょう。」

「温もりがあるかね。」
「ありますよ。少なくとも宿屋には。」
「あの村の宿は一つしかない。」
「そうだったかな。宿の人たちは良い人ですね。」

会話はそれで終わった。
岩壁に挟まれた隘路を越えてバスは村へと到着した。

僕は寡黙な小旅行の同伴者であった運転手に挨拶をした。
「直ぐに町へと戻るんですか?」
「これはバスだからね。」

空圧式の自動ドアが閉まってバスは発信した。

村の様子は変わっていない。
実はここは岩壁の村である。
土地が限られているため、僅かな平地は耕作に残され、村民の住居は岩窟の中に作られた。長い時間をかけて岩窟は掘り進められて、村は岩窟の村となった。

僕は耕地の奥に大きく口を開けた岩窟に入った。この岩窟が村の中心で、この岩窟から四方に延びる横穴に村民の住居が広がる。
中心となる岩窟は、天井高が六メートルほど。かなり広い。そこには小間物屋や床屋、洋品店、食事処と酒屋、それに茶屋が並ぶ。
壁面に設置された白熱灯が岩壁に反射するので、意外と明るい。少なくとも岩窟という言葉のイメージにあるような暗さは感じない。

僕が滞在する予定の宿屋もここにある。横穴の入り口が宿屋の玄関でもあり、受付となっている。階段を上がると客室が十ほど並ぶ。
どれもが四帖くらいのこじんまりとした客室である。こちらの天井は二メートルもないので、客室の中では中腰で移動してソファに座るかベッドに寝るかしかできない。
だが、気密性が高いので冬は暖かく快適に過ごすことができる。

僕は宿屋の二件隣に並んだ定食屋で夕飯を済ませると、岩窟の外に出てみた。冬のことなので、もうこの時分には真っ暗だ。

岩窟に開いた窓から明かりが漏れている。
ぬくもりのある光景だ。
僕はこの景色が好きだ。
夕闇に岩窟や村々の輪郭が溶けていく。その中に人々の暮らしが温かく浮かんでいる。

一度、通りがかった村の人にこの景色の美しさを褒めたことがある。が、村の人にとってはこれも日常で、それよりも彼らは岩窟の内側を掘り進めることに夢中であるから、外側の景色に興味は無いようだった。僕が外側の人間であることを意識させられた出来事だった。

そこに宿屋の主人と居合わせた。主人はまだ若い青年である。彼は一人で宿屋を切り盛りしている。
幾つかの他愛ない世間話の中で、ここに来る道中のバスの話になった。

「あれは僕の父なのです。」
と青年が言った。
「彼はここの暮らしが嫌で、外の世界へ飛び出したのです。村の人間は閉鎖的なところもあるから、彼がここに戻りたいと言っても許しません。」

息子である彼自身はどのように思っているのだろう。
「僕もこの村を捨てた父を憎んだ時期もありました。母が苦労しましたからね。」

「でも父は、ある日からバスの運転手となった。毎日、バスを出して町とこの村を繋いでいる。この路線はバス会社が廃止を決めた路線なのです。父は最後まで廃線に反対し、バス会社を辞めて、とうとう一人でバスを走らせている。」

一呼吸置いて青年は言った。
「有り難い話です。」

村の何人かの者が、彼の父親に村に戻るよう声を掛けたそうだが、父親は頑なに拒むらしい。
村には村の、父親には父親の生活があるのだろう。

岩窟を再び眺めた。
村の変わらない生活が今日も平和に送られている。

再び部屋に戻った僕はバーボンをやりながら、帰りのバスのことについて考えた。
(僕はスキットルをコートの胸ポケットに入れてバーボンを持参したのだ。このスキットルは滑らかな形状で金臭さが無いので実に具合が良い。部屋に灯る間接照明を反射してスキットルは鈍く光る。)

バスの運転手、つまり青年の父親に声を掛けようか。奇しくも僕は彼の歴史について知ってしまった。その労をねぎらいたいと考えている。

行き道のバスで僕が村を褒めた時、彼は少しだけ緊張を解いて安堵の顔を浮かべた。
彼もまた岩窟の外側から、村の美しさに見惚れた人間なのだろう。
彼は彼なりの方法で岩窟の村を愛しているのだ。

やはり止めよう。
と僕は思い直した。岩窟の村。その外縁にいる路線バス。その連環に僕のような外の人間が横槍を入れるべきじゃない。
僕にできることと言えば、冬の度にここを訪れて村の安否を確認することくらいなのだろう。

少し寂しく思いながらバーボンを煽った。スキットルの中身が無くなると、僕は現地の酒屋でアルコールを調達する。この村でも毎年細々と芋の焼酎を作っている。今年の出来はどうだろうか。

僕はバーボンを煽りながら、明晩には村の焼酎がスキットルに満たされるだろうことを想像して快哉とした気分になった。