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【今日のnote】「現代の行者」精神も経済も独立せよ。

 こんにちは、狭井悠です。

 毎日更新のコラムも23日目となりました。最近、一日が経つのが、なんだかすごくゆっくりのような気がしています。

 前までは、もっとあっという間に過ぎてしまっているように感じていました。早朝に起きることなどはあまりなく、わりと遅めの時間に起きて、執筆や編集の仕事に追われ、合間に食事をとり、納品をすると気づけばもう夜で、また黙々と仕事をして、眠りにつく——基本、これの繰り返しでした。

 しかし最近は、こうして毎日更新のコラムと、毎日詩を書くというルーチンをはじめたので、とても生活が充実してきています。

 朝早く起きて、仕事を進めておき、日中に創作をする時間を確保します。食事も規則正しく取り、健康にも気を使っています。

 毎日、依頼仕事以外で決まってやることがあると生活に飽きませんし、しかも「やりたいこと」を筋トレのように欠かさず続けるわけですから、これはなかなか楽しいものです。

 本日書いた詩は以下からお読みいただけます。今日は、新しい詩の表現方法を見出すことができましたので、ちょっと面白いかもしれません。よければ読んでみてくださいね。

 23日間、毎日コラムを書くために手を動かし続けたことで、日常の執筆仕事の底力や勘所も、着実に増強されている感覚がありますし、一石二鳥です。仕事の文章を書いていても、他人の文章の編集をしていても、ぜんぜん疲れなくなりました。

 だって、仕事のほうが圧倒的に簡単なんですよ。書くことがクライアントの要望で(ある程度は)ちゃんと決まっているんですから。別に、心を疲弊させてまで、血の泡を吹いて書く必要はないんです。そこまでのギアは使わなくとも、充分に良い仕事はできます。

 先方の要件をしっかりと汲み取りながら、社会性と倫理とGoogleの法則に従って、文章を丁寧に書けば喜ばれる。他人の書いた文章を、文法に沿って綺麗な文章に編集・精製することで喜ばれる。それで安からざるお金をもらえるわけですから、ありがたいことです。

 それにくらべて、毎日更新のコラムと毎日書く詩というのは、続けることで、ある程度、慣れてきたとはいえ、なかなか手強いものです。

 自発的に行う執筆活動は、誰に依頼されているわけでもなく、報酬もゼロ。工数は日々の暮らしの中から捻出しているわけで、完全なる時間的投資です。ですから、非常に胆力が問われる、重要度の高い仕事だと思っています。

 しかし、これは、精神的にも、経済的にも独立しているからこそ成せる、とても贅沢な時間なんだとも感じています。

 自分に自信が持てない不安定な精神だった頃や、日銭を稼ぐので精一杯のお金がない日々を過ごしていた頃は、何かをやろうと思っても、目線がすぐに下がってしまって、結局、何もできなかったんです。


精神も経済も受け身のうちは何もできない。

 これは僕の持論なので、異論もあるでしょうから、この見出しをみて「いや、そんなことはない」と思う人や、「なんとなく傷つきそうだな」と思う人は、読み飛ばしていただいて結構です。

 しかし同時に、これは、僕が自らの人生で体得してきた教訓でもありますから、決して嘘偽りではありません。誰かの人生にとってはそうでなかったとしても、僕の人生にとっては真実です。だから、ここに書き記しておきます。もしかしたら、誰かの役に立つかもしれませんから。

 ただし、無理に目を通して、嫌な思いをするのはやめてください。僕はそれを望んでいません。しかし、ここは僕のオピニオンを述べる日常のスピーチの場所ですから、好き勝手なことを書きます。それでは続けますね。


 僕が人生における実践の中で体得してきたアフォリズムに「精神も経済も受け身のうちは何もできない」というものがあります。

 人は、自ら考え、行動し、はじめて、精神的にも、経済的にも自立した人生を送ることができると僕は考えます。

 他人や世間の顔色を伺い、自分の言いたいこと、やりたいことを殺し、言われた仕事だけをやっていては、とてもじゃありませんが、何も生み出すことなど叶いません。まず、その気力自体が湧いてきません。胆力がなくなります。諦めやすくなり、心が荒み、見た目も醜くなります。あげく、人や環境の悪口を言い始めたら、末期症状です。

 少なくとも、僕の場合はそうでした。

 言われた仕事ばかりをやっていた頃は、次の日のやりたくない仕事のことが気になって夜も眠れず、創作活動なんて、とてもじゃないけれど、手がつけられませんでした。

 食事管理や体調管理もできず、だらしなく太ったこともありますし、心身を何度も壊しました。見た目も気にせず、どこで買ったのかもわからないようなダサい服を、適当に着て会社に出社していました。

 収入も自分でコントロールできるものではないと思い込んでいましたから、鳥かごから餌をもらうひ弱な雛鳥のように、どうすれば生活が豊かになるのか、どうすればもらえるお金が増えるのか、そうした戦略を何も考えずに、ただただ給料日に振り込まれる定額の金を待ちわび、もさもさと口に糊していました。みだりに酒を飲んで散財し、財産も残りませんでした。

 二十代から三十代のはじめにかけて、東京での会社員時代には、こうした、ものすごく居心地の悪い暮らしを、けっこう長い間、過ごしていたように思います。

 しかし、それは、今思えば、すべて自分の責任だったのです。

 改善しようと思えばできることはいくらでもあったはずなのに、周りの人間のせいや、環境のせいにして、何も変えようとしなかった、自分に責任があります。


 今は、あの頃の教訓があるからこそ、フリーランスとして、精神的にも、経済的にも、独立した意志をもって、他人に依存しない決断を常に心がけています。

 フリーランスの生活では、仕事におけるタイムマネジメントの裁量がすべて自分に委ねられていますから、精神的に疲れたら、自分のペースで休養をとることで、効率よく回復をはかることができます。

 僕は基本的に、友人であれ、恋人であれ、家族であれ、誰かに依存することが好きではないので、つかれたときは、いつも自分でなんとかします。

 ぐっすり寝たり、たらふく食べたり、猫を触ったりして回復し、元気が出てきたら気のおけない友人に会って笑い飛ばします。本当に信頼している一部の親友をのぞいて、基本的に相談はしません。

 なお、回復のペースはすべて自分で管理し、他人に依存しないので、精神的な独立を維持することができます。

 経済面については、フリーランスですから、自分の頑張り次第で相応の収入を得ることができます。社会の構造や仕組みを知り、この1年半ほどで、やっと自信を持って仕事ができるようになってまいりました。

 月に何百万円も稼ごうと思ったら、法人的な仕組みづくりに着手する必要がありますが、月に数十万〜百万円以内のお金であれば、自分から動けば、どうにでもなります(とはいえ、高い報酬をもらうためには、もちろん、血反吐をはきながら頑張らねばならないことを経験しました)。タイムマネジメントのアクセルを限界まで踏めば、やり方次第で、いくらでも仕事を増やすことができるし、お金は稼げるんです。

 こうした、精神的にも、経済的にも、受動的ではなく、能動的な姿勢になったことで、やっと自分の言葉を使って、世の中に何かを書き伝えようと頑張るだけの勇気を持てたような気がします。


 僕は実践主義者なので、自分に実践力がついたという自覚がなければ、強い言葉を放つことができませんでした。そのために、十年かかりました。

 まだ、現在は序章であり、仕事人としても、狼煙を上げて戦い始めたばかりです。これからも、たくさんの困難がきっと僕を待っていることでしょう。しかし、それらとの格闘を通じて、僕はさらに強くなってやろうと思っています。そして、実践から見出した、しなやかで強い言葉を武器に、詩を、文学を続けてみます。人間万事塞翁が馬。

 ILL BOSSTINOの言葉を借りるならば、「言わせ続けてやるぜ、あの男がまさか!」です。孔子様曰く、「三十にして立つ」。現在、三十四歳ですから、前半戦のラストスパートが今です。そして「不惑の四十」に向けての後半戦へ突入していきます。「まさか!」と言われるような人生を、築き上げていきますよ。


「現代の行者」自ら歩み、機をみて翔べ、戦え。

 僕は、このようにフリーランスとして日々を過ごしながら、自らの求道精神に則って、気高く実践の修行を続ける生き方を「現代の行者」と呼んでいます。

 この考え方は、「役行者(えんのぎょうじゃ)」と呼ばれる、1300年前の在家の修行僧の生き方にインスピレーションを得ていますが、この飛鳥時代の人物が作り出した、山岳・自然信仰的なものの考え方や、実践を主眼とする生き様は、現代を生きるフリーランスにも、ライフハック的にものすごく応用がきくものであると確信しています。

「役行者」の生き様を、現代版へ編纂しなおすことで、何か、フリーランスとして現代を生き残るための、実践的かつハイブリッドな、今までにない哲学を見いだせるかもしれない——と、僕は考えています。

 現在、「役行者」の修行した総本山である奈良県吉野の「大峯山」に毎年登山をしたり、拾遺記を読んだりして、【「現代の行者」としての生き方とは何か?】を自分の中で言語化していこうと計画しています。

 僕が今、あたまに思い描いていることを、きちんとしたテクストにして整理するには、もう少し時間がかかりそうですが、これは三十代から四十代にかけての、人生のライフワークとして、黙々と編纂に取り組んでいく予定です。

 今後は、「現代の行者」という表現が、僕が書く文章のところどころでみられることでしょう。この毎日更新のnote、毎日書く詩を通じて、そうした実践主義者としての哲学を、語りながら深めていければと思っています。

 願わくば、この、三十四歳からがむしゃらに書き始めたnoteへの大量のアウトプットが、未来に編纂する集大成となる書物の草稿となれば幸いであると思い、今日も筆を取っている次第でございます。


 さて、今日はけっこう大事なことを書いたコラムになりました。「現代の行者」についての話は、僕の中での書かざるを得ない題材のひとつなのです。

 頑張って書いてしまったので、今日はもう3時間ほど、執筆時間が経過していますね。たまには、こうして力を注いでコラムを書くのも楽しいものです。ちょっと昼寝をしよう。

 今日もこうして、無事に文章を書くことができてよかったです。

 それでは、明日もまた、この場所でお会いしましょう!

 みなさま、引き続き、よい週末をお過ごしください。

 ぽんぽんぽん。 

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。