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あとでいいや

外は雨がシトシト降ってアスファルトを黒く濡らしている。雨用の靴を買おうといつも思っているのだけど、なかなか実行にうつさない。それで雨降りの出勤のたびに湿るスニーカーを恨めしく思いながら、朝食をとることになる。

このあたりには土が少ない。なので幼い頃に嗅いだ雨が染みた土の匂いを、もうずいぶん長いこと嗅いでいない。靴が泥で汚れることも無くなってしまった。

泥がこびりついた靴は母がいつも洗ってくれた。実家の裏口の脇には、ホースのついた蛇口があって、母が靴を、父は車をそこでよく洗っていた。

南下していく太陽の下でワックスをかけられる父の車は濡れた虫みたいに黒く光っていた。父はそれで満足して家の中に入っていく。私と一緒に遊ぶ約束のことは忘れている。

朝、車を洗ったあと遊ぼうなと言ったのに。夕方には、明日またなと言い、翌日には、今度またなと言った。

いつしか父と遊ぶことはなくなった。
友達ができてからかもしれないし、スポーツクラブに入ってかもしれないし、今度またなと言った父の、あとでいいや、という気持ちを察するようになってからかもしれない。

娘は私といつまで一緒に遊んでくれるだろうか。私がいつまでもその時間を大切にする限り、彼女も同じように大事にしてくれるだろうか。

わからないし、わからないことを今考えていてもしょうがないのだけど。

私としては、一緒に映画を観たり、おすすめの本を教えあったり、ささやかな幸せを死ぬまで続けたいと思っている。

“そして父になる“という映画の中で、リリー・フランキーさんの「父親だって替えがきかない」という台詞がある。

成長というのが、目の前にあるなにかを乗り越え続けることだとするなら、娘の心の中に父親がいない時期をつくり、それを乗り越えさせてはならないな、と思った。

一つ屋根の下に住んでいても、いないことになっている人、というのがどういうことか私は知っていて。

この映画を観て、私の願うささやかな幸せは私の不在の先にはないことに気づかされた。

娘がチャイムを押すなら、どんな時でもいつでも温かく迎え入れようと思う。リモートワークなんてクソくらえだ。(夜中にコソコソやってやるよ)

最近は彼女とゲームをしたり、一緒に歌ったりして十二分に同じ時間を過ごしている。この幸福をたくさん積み上げて貯蓄しておかないと、いつ途切れるかわからない時代に生きていることも自覚している。

あとでいいや、と思える温かい思い出が、少しづつ、でもたしかに、積み上がっているのを感じて今日も一日を終える。

雨にはだいぶ降られたけど、ベッドに入る頃にはそんなことは気にしない。いつもよりシャワーがちょっと気持ちよかったなというくらいだ。靴も洗っておいた。

それにしても明日こそ長靴を買いに行こう。後回しにしてよかったためしなんて、ほとんどないんだから。昔っからわかってるんですけどね、そんなことは。でも、つい、ね。



サポートしていただいたお金で、書斎を手に入れます。それからネコを飼って、コタツを用意するつもりです。蜜柑も食べます。