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海外生活は想像以上に修行の日々である。

私がドイツに移住して手放した感情。それは、「期待と執着」だ。


それら2つの感情を手放したことで、これまでに見えていなかった世界を知ることができ、そして自身の内から溢れてくる感情に気づくことが出来た。


恥ずかしい話だが、これまで私は自分の思い通りにならないことがあったら、「怒り」という感情がすぐに顔を出し、それを相手にぶつけることで解決しようとしていた。今思い返すだけで、相手に本当に申し訳ないと思う。そして、そうすることでしか自分をコントロールできなかった自分を本当に恥じている。そして実際に言われた。


「周りに言ってくれる人がいないんやね。」と。


それは今思い返すと、ずばり的を得た意見であったと思う。それでも、それを素直に聞くことが出来なかった自分がいた。



しかしその考えを正すことになる。いや、正確に表現するならば、”修正”という言葉が当てはまるかも。ドイツに1人で移住し、右も左も分からない23歳の冬だ。

知人たちに住民登録や携帯の開通など、生活に必要なことのほとんどを手伝って頂き、1人では結局なにも出来ない、まさにおんぶに抱っこ状態。自分の中にある変なプライドもここでは顔さえ出さない。


自分という存在とひたすら対話する日々。この経験はとても貴重で、私に絶対に必要であった時間。そして辿り着いた考えがあった。


「怒り」という感情は他人に対して自分が何らかの期待を抱えた状態であり、それが自分が思い描いた結果や行動でないから、生まれてくる感情なんだと。でもそれって、自分のエゴですごく傲慢だな、と。

ここに書くまでもなく、分かりきっていることかもしれませんが、私はそれが分からなかった、だから他人に厳しい言葉や態度を投げつけることしかできなかったな、と。情けないけれど。


それは海外に移住して、何もかもが自分の思い通りに進まない、何か物事を1つ進めるのにかなりの時間と労力、そして他人の力を借りなければ、自分ではどうする事も出来ないような問題も中にはある、そんな状態がしばらく(実際移住して1年半経った今も、そんなシーンは溢れている)続き、上手くいかないことが普通、上手くいったらラッキー!となってくるので、上手くいかないことに対しての「怒り」という感情は手放して、自分をその場の波に乗せてあげる、そこに身を委ねることしかできないんです。(というか、正直、日々起こる出来事に対して、様々なことと向き合わなければいけないので、私の場合はそこにかけるエネルギーが無くなってきます。)


期待と同じく、執着という感情も捨てました。だって、持っていたってどうにもできないし、私を助けてくれるものではないとわかっているから。


どうにかしたい、でもどうしようもできない、こんな葛藤の日々が人生に存在してくれて、自身の内に疑問を語りかけることができる、なんて想像していなかったので、本当にラッキーです。



こうして1つ1つ、自分の中にある概念や感情という壁を越えて、ちゃんと「考える」ということを絶対に怠らない。「考える」という事に対して、意外ときちんと向き合えていないことがたくさんあるし、真摯に続けていくとそれがいつか”1人の人間としての強さ”となって表れてくるはずだから。


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