弱っているときに本を読み出すと止まらなくなる

 何をやっても身に入らず、書いた文章もどこか陰鬱で、自分の文章を読んでも気が晴れない。

 そんな気分のとき、図書館で借りてきた本を読み始めると、止まらなくなる。読んで、思ったことを記録して、また別の本を読む。目的なんてない。ただ、素晴らしい作品を読むと、肌が震える。何時間も震え続ける。その震えの理由を解釈することもあれば、解釈せず放っておくこともある。

 自分の体が、自分の意識とは関係なく喜ぶ瞬間があるのを私は知っている。読書は、不思議だ。過去の優れた人の精神が自分の内側に入ってくるような感覚になる。
 それはきっと幻想だ。ただ、人間の体がそういう風に出来ているだけだ。それは、分かってる。
 しかしその幻想に価値がないというわけではない。幸せだし、心が穏やかになる。読書は、乾いた人生を潤してくれる。

 私は名作しか読めない。私は読書をしたいから読書をしているのではなく、退屈で仕方なく開いた本が、たまたま名作であったときだけ、一気に読み終えてしまうし、それを機会があるたびに何度も読み返して、心を慰めるのだ。
(実際のところ、それは少々大げさな表現で、私は何か細かい分野の入門書や解説書を興味本位で読んでみたり、最近話題になった小説を試しに読んでみたりすることもある。私は人の勧めに積極的に従うタイプの人間なので、友達が面白いから読めといったものも一通り読んでいるが、私自身が『どうでもいい』と思った話は次から次へと忘れていくし、忘れていけることに安心している。自分が読んだことをはっきりと覚えている作品のほとんどは、やはり名作である。というか、私が覚えている作品こそが、名作なのである!)(傲慢)

 この三日で『この人を見よ(ニーチェ)』『饗宴(プラトン)』『ジュリアス・シーザー(シェイクスピア)』『崩れゆく絆(アチェベ)』を読み終えた。どれも優れた作品だったし、考えさせられるうえ、消化に時間がかかるものばかりだった。それなのに、私はまだ飢えている。お腹いっぱいになっても不思議じゃないのに、私の精神はなぜか『もっとくれ!』と言っている。

 最近、勉強に充てる時間が増えたせいで読書が減っていたのもあるし、くだらない本を連続して読んでしまっていたのもあると思う。(そうかな? 前の週に借りてきた本は『初心者向け訴訟のやり方』とか『漢文のすすめ』とか『イスラム地域の歴史』とか『ウィトゲンシュタインの生涯』とか、そういうのだった気がする。まぁ勉強にはなったけど、心が満たされたかと問われると、否だね。あと、漫画読みすぎてたのもあるかも。ツタヤでたくさん借りてきて読んでた。漫画は面白いね。楽しいね。でもやっぱりちょっと、空しくなるね)

 ともあれ、名作を好きなだけ読むことができるというのは素晴らしいことだ。素晴らしい時代だ。私は幸せ者だと思う。それは、豊かな時代に生まれたという幸せだけではなく、私の目と認識が優れているという幸せでもある。
 名作を味わうことができる。それを読んで、心を喜ばせることができる。人生を、明るく悩むことができる。
 私は、自分がなんて恵まれているのだろう、と思わずにいられない。自分の優れた能力にも、読書するのに不自由のないこの環境にも、今日のよい天気にも、心からの感謝を捧げたくて仕方がない。

 人生は素晴らしい。楽しく、何の目的も持たず、ただ幸せだからというだけの理由で本を読むことができる。なんて素晴らしいのだろう!

 その幸せと比べれば、私が愚かであることなど、ちっぽけな問題だ。私に立場がないことも、将来の行き先がさっぱり決まっていないことも、どうでもいい問題だ。
 安心して住める場所と苦痛なく食べられるものがある。近所に図書館があり、誰かに読まれたがっている名作たちが私を待っている。それ以上、何を望むというのだろう? 
 あぁ、ひとつあるとすると、愛する人かもしれない。まぁそれは、おいおいということで。
 そうだなぁ。好きな人の肩に頭を預けながら読書できて、読んで思ったことをその人に好きに語っていいなら、それ以上はもう望まないかもなぁ。でも人間って強欲だしなぁ。

(読書感想文、いつも自分用に書いてるんだけど、他の人が読めるようにまとめるのがめんどくさいんだよね。箇条書きだし。気が向いたらそのうちまとめて投下するかも)

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