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後醍醐天皇と光厳天皇 〜その1 後醍醐天皇の即位と討幕への動き〜

日本史の教科書で、たぶん2ページくらいの分量で通り過ぎる南北朝時代。
そこにあえてフォーカスを当てて、図解を試みるシリーズです。
主人公は後醍醐天皇(南朝の天皇)と光厳天皇(北朝の天皇)。

はじめに、図解するにあたって参考にさせていただいた文献と、そもそも「南北朝時代って何?」というところから説明していきたいと思います。

参考文献

今回参考にさせていただいた文献はこちらの2つです。

歴史に関して素人の私が読んで、趣味で解説していますので、その点ご承知おきの上でお読みいただけると幸いです。

南北朝時代とは?

ざっくり言うと、鎌倉時代(源頼朝や源義経が出てくる時代)と、
室町時代(足利尊氏や足利義満が出てくる時代)の間の時代区分です。

武士政権として約150年続いた鎌倉幕府を、後醍醐天皇が率いる軍勢が倒しました。後醍醐天皇は、自分で直接政治を執り行いましたが、その後いろいろあって足利尊氏に敗れます。

足利尊氏が京都で武士政権(室町幕府)を開始後、後醍醐天皇は吉野(奈良)に逃れます。一方、足利尊氏は、天皇に刃向かった賊軍にならぬよう、京都に別の天皇を擁立します。それが光厳天皇です。

吉野の後醍醐天皇の朝廷を南朝、京都の光厳天皇の朝廷を北朝と呼びます。
南朝と北朝が存在していた時代が、南北朝時代です。

鎌倉時代終盤の皇位継承の状況

これから当時の皇位継承のややこしい状況を説明します。
従来は、父(天皇)から長兄(皇太子)へ受け継がれるのが基本で、皇位継承争いなどあったものの、基本的にはその流れでやってきました。
が、鎌倉幕府第3代執権、北条泰時に選ばれた後嵯峨天皇が、息子(兄と弟)のどちらに皇位を継承するのか決めずに崩御してしまったため、兄(後深草天皇)の家系(持明院統)と、弟(亀山天皇)の家系(大覚寺統)の間で、交互に天皇を出すという状況になっていました。

こちらの図が当時の系図です。
今回の主人公の一人である、量仁(かずひと)親王(後の光厳天皇)から見た続柄を書いています。量仁(かずひと)親王は図の右下にいます。この時点では、まだ生まれたばかりです。

親族や親戚の間で、どんな順番で皇位を継承するかが大問題

量仁親王(後の光厳天皇)が生まれたとき、天皇は叔父にあたる花園天皇(持明院統)でした。が、その後皇位は後醍醐天皇(大覚寺統)に移ります。
量仁親王にとって、後醍醐天皇は「いとこおじ」という遠い存在の人です。
よく知らない遠い親戚のおじさんです。

後醍醐天皇には兄がいるので、もともと彼自身は皇位を継承できる立場にありませんでした。が、後醍醐天皇は、兄が崩御したあと、兄の息子が成長するまでの間、中継ぎとして皇位を継承することになったのです。

後醍醐天皇の次の次くらいに、持明院統の量仁親王に皇位が回ってくる予定でした。しかし後醍醐天皇は、そう易々と皇位を持明院統に譲る気はなかったのです。

後醍醐天皇の野望と政治

皇位を継承した後醍醐天皇は、この国を治めるのは武士などではなく、天皇であるべきだと考えていました。そして鎌倉幕府を横目に、まずは皇室の経済を潤すことを目的として、洛中(京都の中心部)の経済政策に取り組みました

鎌倉幕府を討幕したいと思いつつ、まずは資金確保に着手する後醍醐天皇

ざっくり言うと、これまで寺社の支配下にあった商工業者やそのお金を、朝廷側にぐいっと持ってくるようにしたわけですね。

え?なんでお寺や寺社がそんな権力を持っていたの?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。お寺はお坊さんが修行したりお経を唱えているところで、神社は神官がお祈りを捧げているところ。権力などと無関係では?と。

でも、実態として寺社は強い権力を持っていました。その理由は、寺社が荘園領主であること=土地を持っていることに関係します。土地を持っていると、その土地を守らなければなりません。そのためには武力が必要で、兵士を確保する必要があります。兵士を養うためには食料やお金が必要になるので、領地で暮らす人々から品物や税金を徴収する権益をがっちりと握っていたのです。

後醍醐天皇、討幕を企てる

後醍醐天皇は経済政策を推進しつつ、討幕に向けた動きも進めていました。
側近の者たちと会話し、京都で朝廷の動向を見張っている幕府の機関「六波羅探題」の襲撃を計画したのです。

討幕に向けた動きを2度計画するも、どちらも密告により失敗の憂き目を見ることに

でも、密告によって失敗。その7年後に再度討幕を計画するも、またもや密告により失敗。が、ここで諦める後醍醐天皇ではありません。その強い意志が後醍醐天皇の魅力です。そして、もう一人の主人公である量仁親王(後の光厳天皇)は、この時点でようやく元服したところ(17歳)です。後醍醐天皇との年齢差は、25歳。量仁親王は、自分の父親以上に年齢が離れている、よく知らない遠い親戚のおじさんが鎌倉幕府を倒そうとしている状況を、どんな思いで見ていたのでしょうか…

次回は、後醍醐天皇が兵士を率いて鎌倉幕府の討幕を実現するところについて、図解してみたいと思います。もちろん、その頃の量仁親王の動きについても解説できればと思います。お楽しみに!

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!