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よんだ「ジェンダーと科学」エヴリン・フォックス・ケラー著(工作舎1993)

千夜千冊 1822夜 (思構篇)

【 幾島幸子 + 川島慶子 訳 】

(以下、書評というより、
 私 naka が将来的に、いかしたい「言葉」の抜粋です。naka)

これまで一切の偏りから無縁だと見なされてきた
「客観的」な理性の牙城たる科学にも、
ほかならぬジェンダーの色づけがされていることを指摘したのが本書

訳者あとがき(幾島幸子) P.  298

どのようにして科学から女性セクシュアリティーが排除され、
科学客観性という図式ができあがったかが示される。

訳者あとがき(幾島幸子) P.  299

なぜ客観性が「支配」というきわめて「男性的」な概念と
結びつくようになったのかに切りこんでいく。

訳者あとがき(幾島幸子) P.  299

主体と対象を切り離すところから出発する「静的な客観性」に代わる
動的な客観性」という新たな概念を提唱する。(・・・)
人間をとりまく自然が独立した存在であると同時に、
人間と相互依存関係にあることをみとめる立場である。

訳者あとがき(幾島幸子) P.  299

(ここまでが、訳書あとがきからの抜粋で、以下は本文からの抜粋。naka)

ジェンダーの概念は、
ヨーロッパ全域において二百年あまりにわたってわずかずつ変化を続け、
十七世紀の末にはかつて受け入れられていたた男女の役割の多様性
ほとんど影をひそめるにいたった。
>と<>の定義は、
初期の産業資本主義の要請に応じて
仕事家庭が分断の度合いを深めていく過程に
まさにぴったり適合するかたちで、二極分化を遂げつつあった。(・・・)
やがて年月をへて、
あらゆる階層の女性-とりわけ中・上流階級の女性-にとっての
経済・政治・社会的選択の幅をいちじるしく狭める結果を招いたのである。

第3章 近代科学の誕生における精神と理性 P. 102

この分断の最大の要因は、
新たに作られつつあった女らしさの理想だった。
(・・・)
十九世紀を迎えるころには、
飽くことなき肉欲をもって男をむさぼる恐るべき女というイメージは、
家庭の天使」というイメージにとってかわられた。
は新しい時代の価値を支えることを唯一の使命とする、
貞淑で非性化された人畜無害で依存的な存在となったのだ。
こうしての力が飼い慣らされた結果、
かつてのあからさまな女嫌いに代わって、への心情的な思いやりと
保護的な心づかいが安全な代替物として登場してくるのである。

第3章 近代科学の誕生における精神と理性 P. 102

科学の客観性についての科学自身の主張は、
もとをただせば客観的とは正反対の感情的下部構造に根ざすもの
(・・・)
科学者とは・・・客観性を求める野心そのものに主観的意味を
ごっそり身にまとった感覚的存在なのだ。

科学者の客観的世界には、かつての彼自身が幼かったころの
「対象」(すなわち主体)世界が影を落としつづけている。

第5章 動的な自律ー主体としての対象 P. 158

母子関係という観点からみたジェンダーの発達の力学に関する詳細な研究(・・・)分離-個別化の二面性を指摘(・・・)
このプロセスの帰結は自己を他者と異なる物として認識するだけでなく、
最終的に他者を自分自身と同じ”主体”として認識・・・
この二面性は、母子間の双方向的な相互関係に由来(・・・)
子どもの自律の伸長を母親(または主に世話をする人)が喜ぶことこそが、
自律の発達に欠かせない要素(・・・)
もっとも重要なのは、それが「区別や分離としてではなく、
他者とのある特殊なつながりかたとしての分化」を助長するという点

第5章 動的な自律-主体としての対象 P. 174-175

女性における自律の発達を抑制することは、
裏返せば女性の自己意識の発達を阻害することであり、
その結果、子どもの自律の伸長を喪失ないしは拒絶と受け取り、
そのために母子関係の二面的可能性を実現することができない
母親の再生産に手を貸すことになる。
(・・・)
ジェンダーの二極分化の一つの結果は、
こうしたゆがんだ母親の育児であり、
これがそのゆがみをもたらした条件そのものをふたたび強化する

第5章 動的な自律-主体としての対象 P. 175

(母親から「背伸び、すっさんなよー。」と言われたのを思い出す。
 社会人になるのを契機に、遠くに逃げました。naka)

男の子父親と同一化し、母親と脱同一化することによって、
母親の影響下からすっかり出てしまおうとする。
支配を身につけることによって、
息子母親の全能を無能に転換するすべを学ぶ。

第5章 動的な自律-主体としての対象 P. 180-181

(支配を身につけ闘うか、もしくは、逃げるか、でしょうか。naka)

男の子父親から新しい男性性の意味を学ぶのと同様、
女の子はそこから女性性の新しい意味を学ぶ。
従属が支配と表裏一体をなしていることを知り、
それが誘惑の技術として有効であることを学ぶのだ。
彼女は愛情を、父親の権威にあやかる代償的手段として、
同時に母親の秘められた力を奪い拡大する手段として利用しようとする。

 動的な自律-主体としての対象 P. 181

一方、自分のもつ力の本質とその限界について深い混迷に陥ったままの
母親にとっては、愛それ自体が不純なものとなる。
ある種の力をふるおうとする際、所有や干渉を愛情と
混同してしまうことがあるのだ。実際、こうした混同は蔓延している。
そのかたちには二種類あり、
一つはこまやかで感受性ゆたかな思いやりを干渉と誤解してしまう場合と、干渉的行為を愛のあかしと誤解してしまう場合である。

動的な自律-主体としての対象 P. 181-182


抜粋が断片的過ぎましたね。
今も継続されている「科学」は、テーマ=対象を、道具としてみている。
その根底には「支配欲」がある。
そして、それが行きすぎると、私的権力に沿うカタチで
「科学」が製造され、かなり偏ったものとなるでしょう。
「科学」というものも一つの宗教と思われ、
また、権力者の道具になっているものと思います。
言ってしまえば、「科学技術」は、「支配技術」である。

著者は、「もうひとつの科学」の可能性として、
対象に対し、自分と異なる存在と認識した上で、
対象の存在を受け入れる、気持ちを寄せるという見解なんだと思います。

難しい。常に支配層が、目の上のタンコブとなる。
人類に「支配」という闇がつきまとう。
ホモ・サピエンスではない「別の人類」であれば、
こうはならなかったのか。ネアンデルタール人とか。

(内面は脆弱である)支配層について、抜粋して終了。

不断の監視や制御が必要だということは、
自律の概念がまさに自らの目的を裏切っていることを暴露している。

そこには、他者と違うことに対する自信より
むしろ同じであることの抵抗(あるいは拒絶)が、
自分の意志の強さより
むしろ他者の意志への抵抗が、
自尊心より
むしろその脆弱さが映し出されている。
他者に依存することや自己統制の喪失、自己の喪失への不安が、
ここには露呈されている

第5章 動的な自律-主体としての対象 P. 167