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23 オルコット来日がもたらしたもの 称賛と警戒|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇

オルコット帰国と日本人留学僧渡印

さて、病もようやく癒えたダルマパーラは、大阪で四天王寺を拝観し数カ所で懇話会に出席して、ひと足早く五月十四日に神戸からコロンボへの帰国の途に就いた。セイロンへの仏教留学僧として徳沢智恵藏(浄土真宗西本願寺派)が同行している。「十九世紀の菩薩」オルコットはこの後さらに二週間、備前岡山・四国・九州などで大いに獅子吼し、同月二十八日に帰国した。結局、「十九世紀の菩薩」は百日を超える滞在期間中に、請われるまま北は仙台、南は熊本まで全国三十三都市に足を運び、合計七十六回の公開演説会を開催した。その聴衆はのべ二十万人近くにも及んだという。

オルコットは日本仏教代表からスマンガラ大長老のサンスクリット親書に対する友好的な返書を託され、川上貞信(浄土真宗西本願寺派)、朝倉了昌(同東本願寺派)、小泉了諦(同誠照寺派) の三名の留学僧とともにスリランカに同行した。スマンガラ大長老の勧誘に日本仏教界が応えた形だろう。この時の留学僧が、いずれも上座部仏教とは対極に位置する、在俗的教義を持った浄土真宗の僧侶だったのは面白い*50。

オルコットの来日は、鹿鳴館外交への反動から折しも盛り上がっていた伝統思想の見直しや国粋主義思想興隆の時勢ともシンクロし、一般庶民層に仏教への新たな関心を呼び起こした。そして亡国の民ダルマパーラの訴えは、全アジアに広がる「仏教国」への認識と連帯感を少なからぬ日本人に植えつけたのだ。

全国各地にはオルコット来日を契機として、雨後のタケノコのごとく『仏教青年会』が組織された。オルコットの影響で仏教に目を向けた在家の人々の仏教運動が、その後の近代仏教史にどの程度インパクトを与えたのか、その痕跡をはっきりと指し示すことは難しい。しかし、この年の一過的な「オルコット・ブーム」は、仏教に対する関心のすそ野を国民各層に広めたという点で評価されてもよいのではないだろうか。

南北仏教を結んだ功労者

さらに特筆すべきは彼の来日はスリランカ上座部仏教から日本の全仏教界に向けた最初の正式なミッションであったことだ。オルコットとダルマパーラがもたらした、スマンガラ大長老筆のサンスクリット語の書簡は、数百年の間お互いを知ることのなかった南北仏教徒を再び結びつけた最初の公式文書だった。セイロン仏教からの誘いに応じ、日本からは四人もの青年僧侶がオルコットとともにスリランカへと赴いた。にもかかわらず、日本近代仏教史上、この事件はいままでほとんど取り上げられることはなかった。それにしても、当時の仏教系新聞や雑誌におけるオルコット賛美は凄まじい。

 仏教社会のチャンピオンなる、オルコット氏の来朝は、実に日本の仏教社会に向かいて一大活動を与えたり、ただに仏教社会に活動を与えたるのみならず、日本の総ての宗教社会に向いて、一大変動を与えたり。……満胸の熱心をそそぎて、日本国民が仏教を信奉すべきを勧誘せられたるを以て、大中学、高等商業、高等中学、師範学校等の生徒を始めとして、その他の官私立学校の教員生徒に至るまで、大に仏教の必要を感じ、仏教の信奉すべきを知り、處々に仏教青年会なるものを設立して、頻りに仏経祖論の講義演説を、聴聞し旁ら仏教を研究するに至りたるは、実に日本仏教社会の、一大活動といわざるを得ざるなり……

山田孝道「オルコット氏と仏教青年会」『仏教』第四・第五号、一八八九年

オルコット・ブームへの警戒

しかし、白人仏教徒という「救世主」を熱狂的に迎えた僧侶世間の面々は、オルコットの来訪にこのような手放しの賛辞を送りつつ、裏腹では「オルコット・ブーム」への警戒感を隠しきれなかった。

 氏の所説は決して従来、日本の高僧碩徳の所説に一層超越したる所あらず、しかるに何故に諸氏はこれまで日本の高僧碩徳の下に於きて、発見せざりし所の真理をたちまちオ氏の下に於きて、発見せられしや、若しオ氏の米人なるを以て米人の信ずる所のものは必ず真正善良なるものと思考して、信ぜられたるものとせんか、諸氏は仏教を信ずるにあらずして、オ氏を信ずるなり、米人を信ずるものなり、いわゆる欧米崇拝講の連中といわざるを得ず……

同上

日本仏教史研究で知られる歴史学者の辻善之助は、その幼少時にオルコットの演説に接したという。彼はのちに著作のなかで、

 当時我仏教界は、オルコットの説を聴いて、百万の味方を得たるが如くさわいだ。我仏教者が、自ら心に恃む所なく、西洋人の言とさえいえば、之に倚頼することは、あたかも同じ明治の初年に古来の芸術品を惜気もなく、塵芥の如く放擲したものが、フェノロサ其他の西洋人の説に聴いて、忽ちに古美術の保護を叫ぶようになったと同一轍で、まことに頼もしからぬ国民性であるといわねばならぬ。

『明治佛教史の問題』立文書院、一九四九年

と当時のオルコット礼賛の軽薄さを批判している。とはいえ辻善之助少年もまた、明治二十二年当時はオルコットの演説を子供ながら興奮をもって迎えたのではなかろうか。

オルコットのミッションに関して、宗教的偏見や身びいきを排した比較的冷静な記録を残したのは、意外にも高名なお雇い外人であった。

お雇い外人ベルツの見たオルコット

 夜、フェノロサのもとで、神秘仏教の使徒オルコット師にあう。師は仏教徒の真宗派に頼まれて日本中を巡歴し、講演を行っている。だが、聞くところによれば、真宗の人たちは、あまり師から教化されていないとか。当然の話だ──というのは、師の教えるところは、アミダなどを信仰しない南方の哲学形式を神秘的空想、すなわち(ほとんど信じられないのだが、事実は)極端な奇蹟の信仰と混和したものであるからだ。

トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記 上』岩波文庫、一九七九年、一三九頁

明治のお雇い外人の一員として、長く日本に滞在したドイツ人医師、エルウィン・ベルツ(一八四九〜一九二七)。彼はその日記(三月七日)のなかで、オルコット大佐と東京で会見した夜のことを記している。明治時代、日本にいた欧米の教養人はオルコットをどのように見ていたのか。再び日記から引くと……

 オルコット師は品のある立派な老人で、堂々とした白いひげと髪を持ち、洗煉された社交的の外形を備えている。師の話し振りは落ち着いていて、明瞭で、理性的である──がしかし、話しがブラバッキー女史のことに及ぶと、もういけない!
 そうなると、何もかもおしまいだ。師は左手の小指に、三箇の小さいダイヤをちりばめた、重い金の指輪をはめている。この指輪は、師の面前で、ブラバッキー女史がバラの花から「実現」させたものである。しかし、最初はまだダイヤがついていなかった。そこで女史はオルコット師の妹に、指輪を手に取って、その手を閉じるように命じた。それから女史は、自らの手を妹の手の上に置き、若干の動作をした。するとまあ、指輪には三個のダイヤがはまっていたではないか! オルコット師自らのいわく『どうしてこの指輪が生まれたかをお話したらイフ・アイ・テル・ユー・ハウ・ザツツ・リング・ケーム・インツ、あなたはわたしを気違いじじいと思われるでしょうユー・ウイル・テーク・ミー・フオー・アン・オールド・クランク』と。仰せの通りだ。まるで『読心術者』のように図星を指している。
 専門の領域に触れない限り師の話は、はっきりしていて、事実また面白い。ブラバッキーに対する、まさに正気ざた・・ではない奇蹟の信仰は、病的のものだ。師は仏教徒ではなく、ブラバッキー信者だ。だが、師の仏教は科学と相一致すると、師は主張するのだ!

同上

オルコットは「仏教徒ではなく、ブラバッキー信者」であり、「師の仏教は科学と相一致すると、師は主張」している……。ベルツの吐き捨てるような言葉には、しかしオルコットの唱えた『仏教』なるものの本質が極めて的確に捉えられている。ベルツ先生、さすが日本近代医学の祖と仰がれるだけのことはある。ただ重要なのは、「ブラヴァツキー信者」と呼ぶほうがふさわしいオルコットが「仏教徒」を名乗り、「仏教(ブラヴァツキー信仰)と科学の一致」を説くことは、十九世紀末の世相においてなんら不思議ではなかったという点だ。

川合清丸とオルコットの『論争』

オルコット来訪に伴う熱狂を追いかけるように、彼の仏教理解の杜撰さ浅薄さを指摘する声は、国内の識者の間からも上がっていた。当時、西洋文明偏重の時流に抗して国粋主義団体『日本國教大道社』を興し、神仏儒一致の立場から仏教復興を後押ししていた川合清丸(一八四九〜一九一七)は、三月十八日にオルコットと対面した。通訳が仏教教理に暗かったこと、時間が短かったこと等から対話の体をなしていないが、いくつか興味深い記述も認められる。

会見の席上、川合が「そもそも君はいかなる眼を以てか佛教を正法と看認めしや」と問うたところ、オルコットは「佛教の眞深なる事、種々ありと雖も、その第一は進化の学理に合うが故なり」と答えている。これに対して川合は「是はけしからぬ答なり。佛法の眞理なること、何ぞ西洋の証拠を借らむや」と反発しているのは、ある意味まっとうな反応だろう*51。

しかし仏教復興の足がかりを対キリスト教の破邪顕正運動に求めた当時の仏教論者じたい、有神論や創造説といったキリスト教の「非科学性」を、西洋科学を「証拠」にあげて批判していたのだ。「佛法の眞理なる」証明に「西洋の証拠を借」りることは、井上円了以下この当時の仏教思想家にとってなんら疑問を抱くべき営為ではなかった。

そして意地悪い指摘をすれば、そのような攻撃手法は江戸末期、富永仲基の大乗非仏説などを武器に、平田篤胤配下の国学思想家が、もっと効果的な形で仏教に対して仕掛けた攻撃の焼き直し、屈折した意趣返しに過ぎなかったともいえる。オルコットが神智学の『霊的進化論』(当時は最新の科学理論であったダーウィン進化論を宗教的・精神的進化に当てはめたオカルト理論。現在でも生ぬるく受容されている考え方だが、歴史的に見るとかなり業の深い側面もある)と仏教思想を混同したほどのことをどうして論難できようか。

国粋主義と仏教

……廃仏毀釈から欧化主義の時代を通じて非勢にあった仏教は、国粋主義の勃興を挺として、井上円了の『真理金針』(十九年刊)を先頭に、いわゆる破邪顕正運動という体勢をとりながら立ち直りはじめた。

吉田久一『日本近代仏教史研究』吉川弘文館、一九五九年

明治二十一年には三宅雪嶺・志賀重昂らによって雑誌『日本人』が創刊され、国粋主義の潮流が論壇にも押し寄せた。オルコット来日の背景にあったのも、この国粋主義であった。

ここで注目しなければならないのは、政教社を中心としたいわゆる国粋主義の陣営に、どうして仏教徒の論客(島地黙雷・井上円了・大内青巒ら)が馳せ参じていたか、ということだ。明治維新の際、外来宗教として焼き打ちの対象となった仏教が、国粋主義の陣営に加わった意味は那辺にあるのか? これまで「国家への迎合」の一言で片づけられがちだったが、仏教と国粋主義運動の関わりには、実はなかなか興味深いテーマが包含されている。

 政教社は国粋主義を標榜し、欧米文明の模倣より「自家固有の特質」を発展させていこうとした。しかし、その主張は排外的なものではなかった。彼らは、平田篤胤派の神国思想に依って欧化を排撃するいわゆる「高天原派」とは一線を画したのだった。(中略)
 彼らは、神道のみをベースとする国粋主義と仏教を含めて日本の伝統を把握する国粋主義とのちがい、アジア連帯、国際協調とともにある国粋主義と国家主義とともにある国粋主義のちがい、ということを意識していたにちがいない。
「自国の為に力を尽すは、世界の為に力を尽すなり、民種の特色を発揚するは人類の化育を裨ひ補ほするなり、護国と博愛といずくんぞ撞着すること有らん」
 そう三宅雪嶺が書いたとき、国粋主義は国際主義的でさえあった。日本の伝統を固定化しようとする反動的な考えではなく、「個別性の発揚を通じて普遍性を獲得する」ことを求め、三宅は『真善美日本人』をはじめ、多数の研究成果を生み出していく。

坪内隆彦『岡倉天心の思想探訪 迷走するアジア主義』勁草書房、一九九八年、二十九頁)

そして「政教社に参加した思想家たちの多くが、仏教を国粋主義の基盤に据えていた」(上述書)のである。国粋主義という字面の厳めしさから偏狭なナショナリズムを連想するが、坪内氏が指摘しているようにそれは大きな間違いだ。だいいちオルコットが日本人に対して仏教復興と国粋主義を説いたという意味が分からなくなる。オルコットにとって、日本が守るべき国粋(ナショナル・アイデンティティ)とは仏教であった。彼は世界宗教、否〝太古の叡知〟の継承者である日本の仏教徒たちが、ブッダの精神に基づき「固有の元氣」を発揮することを説いたのである。

普遍への窓としての仏教

要するに仏教とは、日本人が自らを世界に向かって開いてゆくための、「普遍への窓」であった。そして窓の向こうには、ブッダの名のもとに混迷を極めるもう一つの世界史が展開していた。

本書の初めのほうで紹介した、故・中村元博士の言葉を思い出していただきたい。中村氏はオルコットの仏教復興運動への関わりは、パーナドゥラ論戦におけるグナーナンダの活躍に刺激されたものだと指摘したうえでこう述べる。

……廃仏毀釈ののちの日本における仏教復興というものは、草の根から芽がひとりでに生えて出てくるように仏教が復興したのではない。スリランカにおけるグナーナンダ師の発した起動力がついに原坦山をして行動を起こさせたのである。

『キリスト教か仏教か 歴史の証言』監修の言葉

前々章でも触れたように、近代オカルティズムの成立に仏教思想が多大なインスピレーションを与えていたことは事実であり、また同時にアジアの仏教徒も西欧オカルティストの仏教評価に励まされていた。パーナドゥラ論戦のグナーナンダがブラヴァツキーの『ヴェールを脱いだイシス』抄訳をセイロン全島に配付し、日本の『反省会雑誌』『海外仏教事情』が神智学系のオカルト文献を西欧における「仏教」として喜んで紹介した背景、「佛法の眞理なる」証明に「西洋の証拠を借」りることに、当時の仏教思想家が疑問を抱かなかった背景には、そのような一見珍妙な歴史の縁があった。

仏教という「普遍への窓」からは、近代という時代を迎えてもなお、三千世界を還流しためくるめく観念や妄想が、日本人の魂を揺さぶるべく吹き込んでいた。仏教を再評価した日本知識人の間には、キリスト教を母胎とした近代の西欧支配を超克するオルタナティブな普遍性への誘惑が、西欧社会の鬼子とも謂うべき神智学系オカルティストの志とも響き合いながら、すでに芽生え始めていたのだ。仏教を奉じるアメリカ人オカルティスト、ヘンリー・スティール・オルコット明治二十二年の来日は、そのような観点からすればまことに象徴的な事件であった。

ちなみに明治二十年代の「仏教を基盤に据えた国粋主義」の潮流は、洗練された高天原派ともいうべき天皇制ナショナリズムの勃興に存在意義を掘り崩されつつも、「アジアはひとつである」という大アジア主義へと新たな変容を遂げる。

忘れられた「救世主」

閑話休題。大風呂敷を拡げたところで、簡単な後日談を……。オルコット訪日の翌明治二十三(一八九〇)年末、マドラスにおいて神智学協会の年次大会が開かれた。その席で大佐は自らの日本訪問を自画自賛して、

 予は日本人野口氏に導かれて日本に往き八宗の高僧と集会し、それより全国を巡歴して七十六回の公開演説をなし聴衆合計廿九万人もありしならん。巡歴中は至るところ人民の上下各級より厚遇を受けこの巡回の結果は頗る満足すべきものありて民間に仏教的精神を引きおこし宗教的大改革の種子を播き散らしたり。

*52

と述べた。

この年次集会に日本から釈興然と徳沢智恵蔵が参加し、徳沢は壇上でオルコットを賛美する演説をぶった。演説は『海外仏教事情』誌上に転載されたが、憤慨した訳者(松山松太郎または櫻井義肇であろうか)が括弧( )内で演説の内容にツッコミを入れているのが可笑しいので引きたい。徳沢の曰く、

 諸君よ、予及び興然師の来って此会に列席したる一事以て、諸君の神智学会が此地を去ること甚だ遠き日本にまで其勢力を伸暢したることを証すべきなり。……昨年オ氏の我邦に来るや其巡回演説の結果は頗る著大にして輿論を一転して仏教に向わしめたり。……三四年以前を顧みて我が宗教の有様を一考すれば其潮勢最低度に達し予は為めに寒心戦慄せんとす。予は思うて茲に至る毎に愈々以て神智学会及びオ氏に向て感謝の念を深からしむるなり。試みに今日の仏教を以て前時の仏教に比較せよ。予が言の過当に非るを証明せん。……(氏の言甚だ事実に過ぐるものと云うべし)
 何となれば近頃に至るまで我邦の有識者流は皆な仏教を軽蔑したればなり。護法の有志家は起て耶蘇教の勢力に抵抗を試みたれども其の効なく殆んど失望の際オ氏の事業を聞き其助力を求めんとて野口氏は遥々当地に来たりオ氏に請うに日本に往かんことを以てし遂に其承諾を得たり。而してオ氏日本行の好結果は前に一言せしが如く実に意想外に出でたり。(過称)
是に於て仏教再び生活を回復し、各所に其信仰の復活リバイバルを始めたり。此復活の結果最も著大なるものは三個の大学校及び数多の学林を設立せんとするに至りしこと及び三百の仏教雑誌の発行を見るに至りしことなり云々(大学の設計雑誌の発行悉く之をオ氏来遊の結果なるが如く明言す何んぞ其観察を誤るの甚だしきや)
 ……仏教はオ氏を以て恩恵者とし或いは之を敬いて父と仰げり。(果して然るか予輩未だ之を知らず)基督教は退縮せり、仏教は回復せり(許多の原因あるを知らざるか)去ればオ氏の日本行は永く歴史に其記録を留るならん云々

*53

確かにオルコットの日本招聘は日本仏教復興の「原因」と謂うよりはむしろ「結果」として実現したものだから、訳者の憤慨はもっともだ。実際、オルコット来日は日本仏教史に残るエピソードとはならなかった。

 オ氏の来朝するや我が仏教徒は挙って之を歓迎したるも同氏一たび我が国を去りたるのちは復た殆んど其運動を報道するなく寂として聞く所あらざる……

*54

オルコットという舶来の神輿は、さんざん担ぎ回られた末にさっさと忘れ去られた。確かにこういう節操のなさは、日本人の「まことに頼もしからぬ国民性」だったかもしれぬ。


註釈

*50 うち川上貞信(一八六四〜一九二二)は一時、大谷光瑞の養育係も務めた熊本出身の俊英。スリランカ留学後にインドへ渡り、チベット潜入の機会をうかがった。ちなみに『浄土教報』第六号、一八八九年四月二十五日ではスマンガラ書簡を紹介し、浄土宗学生の留学を促している。資金的な問題もあり、結局応じるものはなかったようである。一方、浄土真宗の両本願寺は明治初期から宗門エリートの海外視察・留学に積極的に取り組んでおり、欧米サンスクリット学の摂取などに努めていた。海外交流に対しては他の宗派に比べて格段の意欲と体制が整っていた(柏原祐泉『日本仏教史 近代』吉川弘文館、一九九〇年、七十一頁)。

*51 『川合清丸全集 第五巻 佛道即解脱門』川合清丸全集刊行会、一九三二年、三十六〜四十六頁「米人オルゴット氏との對話」参照。進化論を精神的進化に援用した段階的悟り(禅風にいえば、漸悟。上座仏教の修道論も悟りの段階を重視する)論を主張するオルコットに対して、川合が日本大乗仏教の頓悟(見性体験による瞬間的悟り)論を披露して得意がっているのが可笑しい。大道叢誌に掲載された会見記を読んだ儒学者の藤澤南岳は、川合に書簡を送り「嗚呼オ氏の為めに仏理の真を説くもの海内渾て一人なし若し足下無くんば則ち遂に其の下風に立ちて彼を再来の釈尊視するのみならん歟。然れば足下は実に本邦の為に気を吐く者なり。故に今国家の為に之を賀す。」云々。なんだかね……。

*52*53*54 『海外仏教事情』第十八集、明治二十四年二月二十八日


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