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ガス人間と木村武の抵抗−ホールのなかに−

1、ホールという空間

 劇場には観客が客席を埋め、劇のカーテンが下がるや万雷の拍手が贈られる。
 スポットライトを当てられた役者たちは高揚感と疲労感が入り混じった汗と笑顔で挨拶を観客に送る。
 ホールはこの役者と観客との間に共感という奇妙な相互関係で一体となる。
 
 シェイクスピアの喜劇は結婚で終わり、悲劇は死で終わる。

 いずれにせよ、ホールは変わらない。ホールを取り囲む世界も変わらない。

 それが何ら「抵抗」や「葛藤」を感じさせない有り触れたホールという名の空間の光景なのである。

しかし、「抵抗」という名のホールがあるとすれば、そんな日常的光景は通用しないのかもしれない。

 黒澤明の『素晴らしき日曜日』の如く、それはお金もなく、未来もなく、やつれ、傲慢化した戦後社会に若い男女が二人が聴いた風音の「未完成交響曲」が流れた日比谷公会堂の様な場所なのかもしれない。

 香山滋の手によって滅びゆく少数派の「抵抗」の一つの象徴となって、1954年に映画館に姿を現した怪獣ゴジラが権力の象徴である国会議事堂をなぎ 倒した後もその後を継ぐ者は続々と現れた。
 木村武(後に馬淵薫とペンネームを改名した)の脚本による東宝怪獣映画には常にその主題が根底にあった。しか し、松竹の『宇宙大怪獣ギララ』、大映の『大怪獣ガメラ』、日活の『大巨獣ガッパ』、さらには海を越えて韓国の『大怪獣ヨンガリ』やイギリスの『怪獣ゴル ゴ』などゴジラの亜流映画にはそのスピリッツはなかった。
 20世紀の二つの大戦争を経て、性懲りもなく21世紀という未来の開発への科学への過信と自信に支 えられた作品が殆どだった。
 『大巨獣ガッパ』と『怪獣ゴルゴ』を除けば、ほとんどの作品が科学と人類の英知が勝利する。ゴジラと芹沢博士の「抵抗」と「滅 亡」のペシミスティックな視点はどこにもない。
 唯一、香山滋が撒いた種に花を咲かせたのが木村武だった。脚本家になる以前は日本共産党に所属し、「運動」 を実践していた左派の作家だった。もちろん、彼は留置所という名の牢獄にぶち込まれた経験すら持っている人物である。
 木村武の東宝SF怪獣映画路線で最もその傾向が顕著に表れたのは1960年の東宝作品『ガス人間第一号』(監督:本多猪四郎監督)だった。

2、ガス人間第一号
 
 大学に行けず憧れの航空自衛隊にも入隊できなかった図書館で働く青年、水野(土屋嘉男)が科学者に騙されて人体実験を受け、体が気体状になってしま う。
 人間にもガスにも自由に変身できるようになった水野は科学者を殺し、落ちぶれた日本舞踊の家元、藤千代(八千草薫)と出会う。
 ガス人間水野は彼女をも う一度、日本舞踊の世界に押し上げようと考える。そのための発表会を開くための資金作りに水野が取った方法は犯罪。  
 特異な体質を十分に利用しての銀行強盗 だった。しかし、札の番号から藤千代が銀行強盗の共犯容疑で岡本警備補(三橋達也)ら警視庁の捜査班に逮捕される。藤千代を釈放する様に水野は自らガス人 間であることや犯罪のテクニックを明し、発表会は絶対に行うと宣言する。
 ガス人間の正体という特ダネとりに躍起になる新聞社、ガス人間を面子にかけても逮捕したい警視庁、水野と藤千代を保護して研究をしたい科学者たち。例え不法であっても藤千代を世間に押し出そうとする水野。
 こうして、それぞれの利害がぶ つかり合いながら物語はガス人間水野と社会の対決と展開して行く。
 藤千代は元の直弟子たちから流派の再興を手伝うことを条件にガス人間水野と手を切ること を勧めるが藤千代は「わかっているの」と答え、申し出を断る。
 女性新聞記者の「愛しているんですか」という問いにも藤千代は「どうしようもないんです」と 答えるだけである。

 発表会当日、警察がチケットを買占め、ホールに爆発性のガスを充満させ藤千代を救いだした上でガス人間水野を爆殺しようと試みるが、配線が切断され て失敗する。
 藤千代と水野だけの発表会は終わり二人はがらんとしたホールでしっかり抱き合う。「僕たちは絶対負けるものか」という水野の背中で藤千代は ライターを点火させ、ホールは爆発、紅蓮の炎に包まれる。
 黒こげになった背広を引きずりながらガス人間が這い出してやがてかつての人間だった水野の姿に帰る。

 消防車の放水にずぶ濡れになった水野の遺骸に花輪がバッサリと倒れかけ映画は終わる。

 花輪が覆いかぶさる幕切れは本多猪四郎監督があまりにも悲惨なので付け加えた演出であるがこれは少々疑問を感じる。

3、ホールのなかにあったもの

 藤千代の「わかっているの」「どうしようもないんです」という曖昧な答えには慎重な意味が隠されている。藤千代は水野を愛していたのかというとこの セリフからはそうは思えない。
 藤千代と水野を結びつけているのは時代や社会の階級から転落したという立場の共感でしかない。これは悲劇的な結末を迎える愛情劇ではないのだ。
 警察の刑事や機動隊、新聞記者や野次馬、科学者たちが遠巻きに取り囲んだホールの中で時代と社会から転落した二人が閉じ込められてい る。
 「僕たちは絶対負けるものか」と言いながら藤千代を抱きしめる水野は「勝った」と思っていただろうか? 否! 二人は社会の「普通」と思われている社会の システムに抵抗しながらも最初から滅びることを、あるいは敗北することをもちろん予期していたのだろう。
 周囲をぐるりと包囲されたホールには出口はない。 ホールは時代と社会に拒絶された二人を隔離し、滅亡を促す空間でしかない。
 観客の万雷の拍手もない本来の機能を失ったホールは負け犬の牢獄なのだ。
 しか し、二人が本当の負け犬であったのかどうかは誰にもわからない。

「ガス人間は死んだでしょうか?」という岡本警部補の問いに科学者の田宮博士(伊藤久哉) は「どうして爆発したのかもわからないんです」と答える。

 もちろん、爆発は藤千代が点火したライターの火が引き起こしたのだが、この爆発こそ負け犬の牢獄の最後の抵抗なのだ。
 取り囲む人々にはそのことすら 理解できない。時代や社会に抵抗する者たちは絶えず藤千代や水野が閉じ込められた同じホールに押し込められている。
 それは死をもって爆死するほどの力でな いと抗しきれない閉塞感と圧迫感に満ちている。 その中で何が起こっているかさえ遠巻きに見る普通の人々には理解できない。

 藤千代とガス人間は敗北したのだろうか? 少なくとも社会を少しでも震わせる抵抗を行ったことは事実だ。

 ホールのなかには何があったのか?
 それは現代社会のシステムが作った歪んだ牢獄のなかにのたうつ、ひと組の男女の「抵抗」であり、それは敗北に終わった。
 ひとりの観客の観劇も許さぬままに……

 日本共産党を脱退し、脚本家に転身し、戦中戦後を 通じて保守的な映画会社であった東宝の文芸部でこの作品を書いた木村武の想いが「諦念」であったのか、あるいは「革命」であったのかはこの映画を観るそれ ぞれの人びとの立場でしか理解はできないのかもしれない。

 しかし、その答えはこの『ガス人間第一号』のなかにあるのだと、わたしは信じて疑わない。

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