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マルクス・アウレリウス『自省録』ポイント解説⑥(最終回)

この記事をご覧くださり、本当にありがとうございます。

マルクス・アウレリウスの『自省録』について取り上げてきましたが、今回がいよいよ最終回となります‼

マルクス・アウレリウスって?『自省録』って?

という方は、ぜひ導入記事もご覧くださいね!↓↓

さて、『自省録』と言えば、通常版はとても内容が重厚で、ゆっくりと深めて読む必要があります。

参考までに、通常版の『自省録』はこちらです。↓↓

とはいえ、『自省録』の内容は膨大で、全てをご紹介するのは大変です。

そこで、「超訳・自省録」を教材に、さらにポイントを絞ってお伝えしていこうという企画になります。

現在まで5回に渡り、超訳版第1~8章の解説をしています!

前回までの復習はマガジンの方をご覧くださいね☆↓↓


今回は最終回、超訳版9章から、厳選して3選のご紹介になります‼

最後の章、クライマックスとして超訳版『自省録』が取り上げるのは、誰もが避けられない「死」についてです。



第9章 死を想え


161.死後の名声など無意味だ

死後の名声を熱烈に求めている者は、自分自身だけでなく、自分のことを覚えている人たちも、いずれはみな死んでゆくということを考えもしない。

名声は、つぎの走者に点火したあとは消えてしまう、松明リレーのように引き継がれていく。

だが、賞賛されながらも消えていき、最終的にはその記憶全体も消滅してしまう。

だが、名声を記憶する人びとが死ぬことがなく、その記憶もまた消えることがないと仮定してみよう。

それが、いったい君にとってなんだというのか?

私が言いたいのは、すでに故人となってしまった人にとっての意味ではない。

いま生きている人にとって賞賛とはなんだろうかということだ。

確実に役に立つことなら、賞賛は意味あるものだといえるのだろうか。

いま君は、自然からの贈り物を受け取ることを拒否して、将来なにか言われるだろうことにしがみついているのだ。

死後の名声を求めたところで、自分だけでなく、自分を覚えている人だってやがては死んでいく。

たとえ、自分が名声を残したとしても、その名声を記憶している人もいずれは死に、名声自体も消えていく。

それが一体何の意味になるのか?

言われてみればその通りです。

世界史上に名前を残すなど、ほんのひと握りの方の名前ならば残りますが、残ったところで故人にとって何になるのか、生きている人になって何になるのか、と聞かれると、答えに困ってしまいますよね。

自分が一生懸命執着している名声だって、長い人類の歴史の中で言えば、一瞬で消えていく、虚しいものですよ、ということ。

将来何と言われるかを気にするよりも、現在ただ今の自然の恩恵を受け取ること。

つまり、今という時間を生き抜くことが大切だ、というのがマルクス・アウレリウスの一貫した主張です。


173.死ぬことも人生の行為の一つだ

君が自分自身の義務を果たしているときは、寒かろうが暑かろうが、どちらでもいいではないか。

眠気があろうが十分に睡眠をとっていようが、悪く言われようが賞賛されようが、さらにいえば、死につつあろうが、なにかほかのことをしていようが、どちらでもいい。

死ぬこともまた人生の行為の一つだ。

格言にあるように、死ぬこともまた、「いま手元にあるものをうまく処理する」だけで十分なのである。

通常版では、「死ぬことも人生の行為の一つ」、「現在やっていることをよくやること」が大事、とあります。

つまり、「死」とは、寒いとか暑いとか、眠いとかと同じように、当たり前のように訪れる人生の行為の一つ。

不必要に恐れたり騒ぐようなことではなく、「現在を生きることが大事」。

マルクス・アウレリウスの一貫した死生観ですね。


180.五年生きても百年生きても本質は同じだ

人間よ、君は宇宙というこの偉大な国家(ポリス)の一市民であった。

それが五年のことであろうが百年であろうが、いったいどんな違いがあるというのか。

宇宙の法のもとでは、すべての人がおなじ扱いを受けるのである。

君をこの宇宙という国家から送り出す者が、暴君でもなく、不正な裁判官でもなく、君をこの世に送り込んだのとおなじ「自然」であったのなら、なにがつらいというのか?

それはあたかも役者を雇い入れた芸術監督が、その役者を舞台から引きずり下ろすのとおなじようなものだ。

「でも、私は全五幕のうち三幕までしか演じておりません!」

「そうだろう。だが、人生においては三幕でも完全なドラマとなるのだ。
だから、心なごやかに出てゆきなさい!
君をこの世から解放する者もまた、なごやかに満足しておられるのだ」

私たちは本来宇宙の一部であり、5年生きようが100年生きても本質は変わらない。

たとえ全五幕の中で三幕までしか演じていない人生、つまり予想外に早く死んでしまう人生になったとしても、短い人生で完成となることもある。

人生を三幕までしか演じていない!と憤慨する人に対して、マルクス・アウレリウスは「人生においては三幕でも完全なドラマであるのだ」と語ります。

そして、その理由として、通常版では、

「なぜならば、終末を定める者はほかでもない、かつては君を構成し、現在は君を解体するの責任を負うた者なのである。君はそのいずれにたいしても責任はない。」

とあります。

つまり、「あなたの人生の終末を決めたのは、他でもない、あなたを創った神様なのだから」。

神様という「芸術監督」が役者の退場を決めたなら、私たち人間がつべこべ言うことでもなさそうです。

私たちは宇宙の一部。人生は壮大なドラマのようなもの。

そう思えば、今回の人生も何らかの役割を果たせたならば良しとしよう、という達観した境地を得られるのかもしれません。

マルクス・アウレリウスの『自省録』は、この一文をもって全12巻が終わります。


〈まとめ〉

第9章 死を想え

  • 名声はむなしい

  • 死ぬことも人生の行為の一つだ

  • 五年生きても百年生きても本質は同じだ

マルクス・アウレリウスの「自省録」もこの回で終わりかと思うと、非常に感慨深いものがあります。

読めば読むほど、後半になればなるほど、マルクス・アウレリウスの内面の深みに魅了され、1800年の時を超えて、彼の心の中に入れたような気がしてとても幸せでした。

マルクス・アウレリウス自身が自らを鼓舞するために書き続けていた『自省録』。

皆さんの心を潤し、人生を考えるきっかけとなれば幸いです!

長らくお読み下さり、ありがとうございました。


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