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【書評】『シアンクレール今はなく』川俣水雪歌集

立看もビラさえもなきキャンパスに仔羊の群れ飼われ飼われて

この歌集はⅠ章とⅡ章で詠われ方がかなり異なっている。
特にⅠ章は固有名詞も多く、学生運動の時代に生きた実在の人物に強くシンパシーを感じる作者が色濃く出ていることもあり、
詠まれているその時代のことを知らないと、読みにくい部分もある。
私もまさに当時を知らない世代なので、いろいろと調べながら読んだ。

上記の一首は、しかし、もうそうした時代からは遠ざかってしまって、
大学のキャンパスには闘うことをしなくなった学生たちがおり、
まるで仔羊が飼われるようだという歌。
作者の危惧をシニカルに歌った一首である。
作者にとって私はまさに、この仔羊に該当する世代であったはずだ。
そんな私にこの歌集はどう映ったか。

①実在の人物に成り代わった歌

失恋?と書いてノートを閉じているシアンクレールいつもの席で

帰る日はいずれの年か今春も碧の江を眺めて過ぎぬ

一首目。Ⅰ章は高野悦子であったり、高橋和巳であったり、
作者が強く思いを寄せる、心酔する人物に成り代わる、一体化するように詠まれた連作が多い。
この歌も、実際に高野悦子の日記、『二十歳の原点』にそういうシ ーンが出てくる。
従ってシアンクレールのいつもの席でノートを書いているのは、
高野悦子本人と読むのが自然かな、と思うし、
連作自体が、高野悦子の生涯を生き直すというか、非常に対象に寄ったルポタージュのような感じで作られている。

二首目も中国の唐の詩人、杜甫に成り代わるようにして詠まれた連作の一首で、
河を眺めているのは杜甫自身、と読むことができる。

高野悦子は学生運動の時代に様々に悩みながら闘いに参加していたし、
杜甫もまた、左拾遺の職についたと思ったら左遷されたりと、時代に翻弄されつつ懸命に生きた 人物だ。
こういった懸命に生き、闘う個々の人物に作者は強く共鳴して歌を作っている。
そしてそれは、次に挙げる「現代社会への強い危惧の歌」にも繋がっている。

②現代社会への強い危惧の歌

海峡をわたる春風初蝶の監視カメラにリレーされたる

曼珠沙華二本刺さりて摩天楼跡形もなくくずれゆく秋


一首目に代表されるように、 監視される社会、言論の自由がなくなってきている社会、日本、そして世界に強い危機感を持った歌がとても多い。
二首目は 9.11 のことだと思うが、あの飛行機を曼珠沙華に例えていて鮮烈な印象を受ける。
こういう歌を読むと、私自身も安穏としてい ていいのか、もう少し自分を取り巻く状況に危機意識を持った方がいいのではないか、
という気持ちが喚起されることになる。

③本歌取りの多用

そののちも幾時代かがありまして地球の終わる冬の日暮し
 ・「幾時代かがありまして茶色い戦争ありました」(サーカス)
   中原中也『中原中也詩集』岩波書店(1981)

湖に小舟をうかべ眠りいる「フランシーヌの場合」も知らず
 ・「原始の森にある湖をさがしに出かけよう。そこに小舟をうかべて静かに眠るため。」
   高野悦子『二十歳の原点新装版III』カンゼン(2009)

本歌取りといっても広い意味での本歌取りで、
短歌・俳句・詩・歌謡曲・日記など多種多様なものをベースにした歌が多数見られる。
一首目の「幾時代かがありまして」は割と有名なフレーズなので、
中原中也が頭に浮かぶ方も多いのではないだろうか。
自然と「茶色い戦争ありました」と続きを浮かべつつ歌に戻ると、
この作者は地球ももう終わってしまうということを危惧している。
本歌取りで茶色い戦争という言葉を想起させて、地球の終わる、と繋がる感じが、一首をより膨らませている歌だと思う。
対照的に二首目は、最初に読んだ時は上句は作者の独自の表現と思って読んだ。
後から『二十歳の原点』を読んで、この日記の部分の本歌取りであることに気づいた。
私が当時の諸々に詳しくないということももちろんあるが、
この歌集にはパズルやコラージュのように本歌取りが多いこともあり、
ここは作者独自の表現か? いや、私が知らないだけで本歌取りなのでは?
と何度か迷うことがあり、
そこは少しもったいないところなのではないかと思う。
もちろん手法としてはとても面白く、あくまで本歌取りの割合の問題かな、と思うし、
そもそもすべて気づく必要があるのかと問われると、そうでなくとももちろんいいのだろうと思う。

上記はすべてⅠ章からの引用で、Ⅱ章に入ると日常生活への優しい視線の歌や、ユーモアの歌がぐんと増える。
作者の温かさが伝わって来る歌がたくさん出てくるのだ。

④故郷や日常生活への優しい視線の歌

小さき手の逃がしてばかりさっきからでも楽しそう夏簗の上

あの夏のサマルカンドはよかったね楕円形した西瓜だったね


一首目。魚をとる仕掛けの上で子供が楽しく遊んでいるのを見守る作者が出てきてほっとさせられる。
二首目は、旅仲間に語りかけるような歌。
サマルカンド、楕円のスイカが効いていてとても楽しい歌だ。

⑤ユーモアの歌

新妻と呼ばれることもいまはなく力まかせに南瓜切りおり

いつもなら加茂大橋ですれちがう午前6時のカントに遭わず


一首目は新妻とかつて呼ばれていた奥様も今はかぼちゃを力任せに切っているという歌。
そう言いながらも愛に溢れているのが読む者にしっかりと伝わってくる。
二首目もすれ違うのは散歩中の犬だと想像するが、
犬と言わずにカントとだけ言うことで、哲学者とすれ違っているような可笑しみを生み出している。

Ⅰ章は「体制」への危機意識、Ⅱ章は「個」への優しい視線を感じるが、
読み込むと、どちらも同じ方向を向いた歌だと思えてきた。
弱く脆い個人の側にいつも立ちたいと願う作者が歌集全体を通して浮かび上がり、その点に共感を覚えた。
これまで私自身が関心を持たなかった事柄について深く考える契機ともなった、印象深い歌集である。
                      (静人舎 2019/11)


いつもの書評と少し書き方が違っているのには理由がある。
川俣水雪さんの歌集『シアンクレール今はなく』の読書会はコロナ禍で一度延期となり、
2020年10月3日に開催された。
その時に私は初めてパネラーとして参加させていただいた。
その時のレジュメと発表原稿をnote用に書き直したものが、今回の記事である。
読書会から3年も経っていて、簡単なことで言っても、一番最後に引用した歌は、当時「犬」と断言しているが、
カントなんだから「人」なんじゃないか、と思ったり
(その一つ前の歌が「駆け寄りて甘噛みをするじゃれてくる貴方のリード長すぎないか」
 だったので引っ張られたのかもしれないけれど)
読み方はその時々で変わってくるものだと実感している。

川俣さんはご病気の療養中にこの歌集を出版された。
私がお会いした川俣さんは、辛いところなど一切見せず、にこにことされていた。
読書会で、私が③本歌取りの多用について、
「ここは作者独自の表現か? いや、私が知らないだけで本歌取りなのでは?
と何度か迷うことがあり、
そこは少しもったいないところなのではないかと思う。」
と上にも書いたことを、当時思ったとおりに発表し、後から「あれで良かったでしょうか?」
とお聞きしたときにも
やはりにこにこ笑って受け入れてくださったことが、ずっと印象に残っている。
読書会の最後にご自身の歌を朗々と朗読されたことも。
川俣さんは2021年10月にご逝去された。

笑顔も声も残っている。
歌は、もっと長く遠くまで残るのかもしれない。
そうであってほしいと願う。


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