見出し画像

【書評】『やさしいぴあの』嶋田さくらこ歌集

瑞々しく、時にちょっと意地悪。
無敵のようであり、とても弱々しい瞬間もある。
そんな相聞歌で、この歌集は軽やかに幕を開ける。

くちびるに押し込むチョコの一粒がくれる甘さで生き延びている

日曜のまひるあなたを思うとき洗濯ものもたためなくなる

暗闇でわたしに触れた人の眼に卵を孵す静けさがある

かきつばたすみれやまふじれんげそう 夏が始まる前に触れたい

チョコの一粒は恋の味である。
甘くてビターで小さく愛らしい。
その一粒を口に押し込み、その甘さで今日を生き延びるという。
愛する人への思い一粒を抱きしめて、人恋しい日を渡る。
くちびる、で始まる出だしが、やはり恋愛を想像させる。
そしてまた、くちびるで始まるからか、私がこの一首から思い浮かべる色は、真っ赤だ。
この歌集の帯のようなまったき赤。
二首目、わ、わかる、というしかない。
なんもできなくなる。手が止まってしまう。
あの人は今何をしているのか。誰と会っているのか。
畳みかけの洗濯物を膝に乗せ、ぼんやりしている主体が思い浮かぶ。
三首目、あなたに暗闇で触れられている。
そんな時のあなたの眼には「卵を孵す静けさ」があるという。
その独特の把握が美しい。卵を孵す生き物と言ってもいろいろあるが、私は鳥を想像した。
小さすぎも大きすぎもしない、思慮深そうな鳥だ。
四首目の上句はすべて春から初夏にかけて咲く花だ。
そう、それらが咲き終わり、夏の花が咲くまでには、あなたに触れたい。
三、四首目に見られるように、主体は触覚に敏感だ。愛することと触れることに強い繋がりがある。

色ちがい柄ちがいの服 いもうとの持ってる方がぜんぶ眩しい

おう、わしやわしや、と電話かけてくるこの町のおじさんはみんな

午後五時に役場で歌う「まどいせん」どぼるざーくは有名な人

ペン先に海があふれる夏休みさいごの噓はやさしい色だ

Ⅱ章に入ると、主体イコール作者となりそうな歌が表れる。
章の最初に短く文章が掲げられていて、そこで作者の祖父が洋品店を始めた経緯や、
作者にピアノを買ってくれた曾祖母のことが語られる。
音楽用語はこの歌集全体を優しく包んでいるが、それはこの曾祖母のピアノから来ているようだ。
一首目、姉妹で色や柄違いの服を着ている。
というか、大人が選んで勝手に割り当てているのだと思う。
なぜ私がこちらの色なのか、柄なのか、納得がいかない。
でもきっと逆に割り当てられても同じだ。妹の着ている方が素敵に見える。
「眩しい」がその気持ちを言い得ていると思う。
二首目を読んで、この町の人々の距離の近さを思った。
この歌では、電話してくるおじさん達はユニークに感じられるが、距離が近すぎればしんどい面もあるだろう。
三首目、うわー、出たー、と一人で興奮してしまった歌。
私の場合は役場ではなく、小学校の下校の音楽がこのドヴォルザークの曲で、かかっていたのはオーケストラの演奏だったと思うのだが
歌詞としては「遠き山に日は落ちて」で記憶されていて、未だに時々思い出す。
これが校庭に流れ出すと、タイヤの上をぴょんぴょん飛び移るのをやめ、帰らなきゃ、とランドセルを取りにいくのだ。
そして「まどいせん」である。
この言葉でこの歌は終わるのであるが、今まで意味を知ろうとしたことがなかった。
今回この歌(短歌の方)に出会って調べ
「団居(まどい):人々がまるく居並ぶこと。1か所に集まり会すること。」
「まどいせん」=「団居しようぜ」だと初めて知った。
熱弁をふるってしまったけど、きっと作者も毎日午後五時に流れるこの曲に強烈なイメージがあるのだと、思いたい。
四首目、「ペン先に海があふれる」とあるので、ブルーのインクのペンだろうか。
子供の頃はいろんな色のペンが欲しくなる。
三句目の「夏休み」は、「夏休みさいごの」と下句にかかるのだろうが、上句についているようにも読め、どっちつかずのところが私は好きだ。
夏休みさいごの噓は、一体どんな嘘だったろう。

星あかり月あかりのもと玄関とポストと犬の位置を覚える

誰からも非難されない名目でわたしは母になることをせず

百日紅は色を変えずに散る花、と教えて祖母はほほえんでいる

祖父のよぶ五月に祖母もゆき父も母もわたしもいない夏の庭

国道で寝ころんでみる午前四時の北斗はすこしつよくかがやく

祖父母の死、家業の変更(洋品店から新聞販売店へ)などを作者は経験する。
一首目は早朝の新聞配達を始めた作者にしか体験できないことを歌にしている。
五首目もまた、新聞配達時の歌。国道で寝ころぶ。車の通らない時間にしかできないことだ。
空の北斗七星がいつもより強く光っている気がする。
家業が変わったことで作者の仕事もまた変わったわけだが、
仕方ないなぁと思いつつどうにかやっていこうという気持ちが歌に表れている。
二首目、その名目については語られていないが、そろそろ子供を、という暗黙のプレッシャーを与えられることなく暮らしていると言う。
それでも「母になることをせず」という歯切れの悪い言い回しが、主体に複雑な感情のあることを物語っている。
三、四首目、祖父母のことを思う歌は静かで優しい。

あなたとはもっと話したいことがあるのに抱き合うのが忙しい

シーソーで泣いたあの子はもういない れんげ畑は燃えてしまった

会いたい、と思ってたけど、触りたい、の間違いだった。日溜まりのカフェ

Ⅲ章、再び眩しい恋の歌が表れる。
やはり主体は触覚を研ぎ澄ませている。
話すよりも抱き合い触れ合っているし、カフェでも会いたいではなく、触りたいと思っている。
もうシーソーで泣いた小さなあの子=私はもういないのだ。大人になって久しい。
「れんげ畑は燃えてしまった」という心の情景が、赤と紫を想起させて美しい。

多くの人が、それぞれのあの頃を思い出したり、まだ見ぬ未来の恋に思いを馳せたりできる。
歌集のタイトルそのままに、やさしい音楽が流れているような一冊である。

                    (2013/11 書肆侃侃房)

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?