見出し画像

統合失調症と共に歩む、私の「幸福」についての考察

統合失調症を宣告された当初、「自分の人生は、終わった」と思った。医者の真剣な表情と失望した両親の顔が、私の不安を煽ったからだ。しかし、統合失調症は統計的に見て100人に1人が経験する病であり、珍しいものではない。時間が経てば経つほど、症状の「コントロール」も学べる。今では完璧ではないけれど、日常生活に支障はあまり感じなくなった。

「とりあえず、大丈夫。結局慣れだから」と、今では当時の自分に言える。当時の生活があのまま続いていたら、「つまらない人生」を送っていたかもしれない。常に真面目で、努力が全てと信じていた私は、その固定概念と同調圧力の奴隷だった。

「努力」と「我慢」が幸福への鍵だとする考えは、古き日本社会の間違った考え方だ。勉強や仕事の能力が直接幸福に繋がるわけではない。幸福は人それぞれの定義に過ぎず、病気があるからといって不幸とは限らない。統合失調症であっても、クッキー作りの喜びを感じることができれば、それは幸福だ。パニック障害があっても、自然の中を散歩する喜びを見つけることができる。

幸福とは個人の主観だ。自分を不幸だと思い込むと、病気も悪化する傾向があるが、幸せだと感じれば、病気は存在感を失う。15年間の闘病生活から学んだのは、幸福感を持っていれば、生きづらさを感じさせる病気も影を潜めるということ。

闘病中、私は自分が何を好きで、何に得意で、何をしている時に幸せを感じるのかを知ることができた。「美味しいものを食べる・作る」「読書をする」「文章を書く」ことが私の幸せだと気づけた。他の人が真面目に勉強や仕事をしている間、私は「治療」を名目に様々なことにチャレンジし、自分自身をよく観察した。日記を40冊以上も書き記し、自己洞察力を高めたのだ。

結局のところ、病気は私にとってある意味で幸運だった。真面目に生きることが再発のリスクを高めるため、不真面目でいることに罪悪感はあまりなかった。私は「真面目に不真面目」であることを選んだ。

人生で最も大切なのは、自分にとって面白いことを見つけ、それを追求することかもしれない。統合失調症をきっかけに、その重要性を知ることができた私は、今は、「楽しいことを探す」ことに多くの時間を費やすことができた。病気を抱えているという現実は、私にとって、自分自身と向き合い、自分の幸福を見つけるための時間を与えてくれた。

病気というレンズを通じて、多くのことを学んだ。何より、自分にとっての幸せがどこにあるのかを探求する貴重な機会を得た。例えば、読書を通じて得られる洞察や、料理をする際の創造的な喜び、旅行で経験する新しい世界との出会いなど、これらは他の人が普通に生活している中で得られない、貴重な体験だ。

さて、ここで一つ、大切なことに気付いた。病気との闘いは、時に自分の中にある本当の情熱を見出すきっかけとなり得ることだ。統合失調症と診断されてからの時間は、社会の枠組みから一時的に解放されるという意味でもあった。その解放感が、新たな自由と可能性を私に教えてくれた。

「真面目に不真面目」な生き方は、私にとって新たな幸福の形を作り上げることにつながった。それは、自分自身の内側にある声に耳を傾け、自分にとって何が大切かを見極めるということ。そして、病気がもたらした時間を活用して、自分だけの幸せを見つけ出すことに他ならない。

統合失調症という診断は、一見すると人生に暗い影を落とすかのように思えるかもしれない。しかし、私にとっては、自分自身という存在を深く掘り下げ、真に幸せを感じることが何かを考えるきっかけとなった。そして、その答えは一つではない。それは日々の小さな発見と、心から楽しむことができる日々の中にある。

このブログを通して、私の経験が同じような状況にある方々の希望になり、また誰かの心に響くことを願っている。統合失調症という病と共に、私たちはそれぞれに異なる道を歩むことになるが、その中で見つける小さな「幸福」が、最も価値のある宝物だと信じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?