差別と個性の間を揺れる

「『つんぼ桟敷』ってどういう意味ですか?」と聞かれた。今どきこの慣用句を問う私立高校があるのか、となかなか驚いた。というのも、報道各社の忖度によって、『つんぼ(聾)』は差別用語とされているからである。
私は産まれつき左耳が聞こえないため、『左つんぼ』と言われて育った。もちろん、友人から言われたのではない。祖父から言われていた。なぜならば祖父もまた『左つんぼ』だったのである。自分が幼時から聞かされてきた言葉であったため、『つんぼ』という言葉には差別意識は持っていない。むしろ、近年言い古された言葉を使うならば、自分の個性を表す言葉として、むしろ親しみに近い感情を持っている。

私の日本史の師匠は、このことで社民党の某女性代議士とテレビで激論を交わしていた。「『つんぼ』は差別用語である。だから『耳の不自由な人』と言い換えるべきだ!」とヒステリックに主張する女性弁士。それに対し。「言葉は文化である。いずれ『ブス』は差別用語だから『顔の不自由な人』と呼ぶ時代が来るのか?それは嫌味ではないのか?」と真っ向から異議を唱える私の師匠。そのあとテレビの画面が「しばらくそのままでお待ちください」に切り替わったのは別のお話。

なぜ『つんぼ』という言葉が差別用語に指定されたのか。その理由は不明である。私としては自分を形容する個性を奪われたような、少し寂しい気持ちがするのも事実である。『つんぼ桟敷』の代わりに、今では『蚊帳の外』という慣用句が使われている。蚊帳を使わなくなった昨今、この慣用句も適切なのかどうか。顔の不自由な私は、不自由な頭を使って、言葉とは何か、差別とは何か、と考えているのである。

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