言うに言えないことを察する心
得体の知れない重々しい気持ちを引きずったまま、人生を歩いた果てに、
その重々しい気持ちこそが、生きづらさである、と気がつく人がいます。
その原因が、幼少期の親子関係にあるのではないか、という事まで見通す人がいます。
その人は、生きづらさの原因となった親子関係しか知らないのですから、自分一人で、そこまで辿り着くには、とてつもない苦しみや、寂しさ、虚しさを味わった筈です。
とてつもなく苦しかったから、自分の心の在り様を、探り始めたのだと思います。
そして、その人は、幼少期の親子関係に行き着きます。
生きづらさを抱えた人の多くは、親から搾取されながら、「自分は人並み以上に愛された」と信じ込んでいます。
親は搾取しながら、「子供を愛している」と思い込んでいて、
親自身の無価値感から目を逸らす為に子供を利用している、という意識がありません。
幼い子供は親を無条件に慕いますから、搾取されていても親が、これが愛だ、と言えば、愛だと信じます。
中には、その親子関係が、愛では無いという事に気がつきそうになる子もいますが、
愛が必要な幼い子供は、親に対する疑念を心の奥に封じ込めます。
つまり、薄っすらとした、愛されていない、という思いを無いものにして、その子は「自分は愛されている」と、決める、のです。
そうやって、搾取され、苦しんで歩いた果てに、生きづらさに気がついて、
探ったら、幼少期の親子関係に行き着きます。
人並み以上に愛された、と信じていたものが、いっぺんにひっくり返ります。
騙された、そう思います。
怒りが湧き上がり、恨みが渦を巻きます。
まだ幼く無力な頃に、抑え込まれたその人にとっては、成長した今も、親は絶対です。
しかし、騙された思い、湧き上がる怒り、渦を巻く恨みを原動力に、
生まれて初めて、幼少期の出来事を親に突きつけます。
親は、「考え過ぎ」だと言います。
「覚えていない」と言います。
「お前を思えばこそ」
「親子じゃないか」
そんな言葉を並べます。
そして、
意を決して、親と対峙した人の多くが、
「今になってそんな昔の事を持ち出すぐらいなら、その時に言えばよかったじゃないか」
といった意味の事を言われます。
その人が幼く無力であった時に、親は圧倒的に強い立ち場にありました。
その力関係を利用して、騙し、抑えつけたのです。
つまり、無力な幼い子供はその時に、言うこと、など出来よう筈が無いのです。
言うことが出来ないから、薄っすらとした疑念が湧いても、その子は呑み込むしか無いのです。
そして、親もまた、その子が薄っすらとした疑念を持つのと同程度に、
微かに、子供を利用し騙し、抑えつけている意識はあるのです。
しかし、親はそれを無いことにします。
子供は薄っすらとした親への疑念を無いことにして、
親は微かな、子供を騙し利用している後ろめたさ、を無いことにします。
そうすることでしか成り立たないのが機能不全家庭です。
親はそうすることで、無価値感から目を逸らすことが出来、
子供はそうすることでしか、居場所を得ることが出来ない、のです。
親が圧倒的な力関係を使って、幼い子供を言うに言えない状況に追い込んで、いいように支配して、
子供が生きづらさに気がついて意を決して対峙したら、「その時言えばよかったじゃないか」は、
本当に、卑劣、だと思わずにはいられません。
機能不全家庭に於ける親子関係を考える時、
親はやむを得ない事情があって、子供を利用する立ち場に立つことになるのは理解していますが、
結果として、健やかな家庭に有って、機能不全家庭に無いものは、愛、だとつくづく思います。
大括りに言うと、愛、ですが、それを分解すると、尊重、と、思いやり、だと思います。
尊重についてはいつも記事中で触れていますので、今回は割愛させて頂いて、
思いやり、は、機能不全家庭に決定的に欠けているもの、だと思っています。
取り上げた、言うに言えない状況の時、言葉は無くても、相手の背景を察することが、思いやり、だと思うのです。
この子は、悲しいんだな、言うに言えないんだな、と慮ってあげることが、幼い子供には必要です。
思いやりが、幼い心には欠くことが出来ない栄養です。
言うに言えないとき、他者が思いやってくれるのは、文句なくあったかくなるじゃないですか。
子供にはその、あったかさ、が必要だと思うんです。
思いやり無く、相手の背景を見るとき、それは、観察(監視)からの、推察、憶測、更に言うなら、邪推、だったりします。
健やかな家庭の親が子に注ぐ眼差しには、思いやりがあります。
それは、あたたかな空気を創ります。
機能不全家庭での親から子への視線は、支配する前提ですから、思いやりは勿論無く、裁く者と裁かれる者を分かちます。
言いたくても言えない状況に追い込んで抑えつけ、
後に、「その時言えばよかったのに」と言う心には、
思いやりは、欠片もありません。
生きづらい人が、
感じている苦しさを、生きづらさ、だと紐づけることは、簡単ではありません。
いろんな角度から自分を眺めることが必要です。
言いたくても言えない状況があったか、
察してもらえて、気持ちがあったかくなったことはあったか、
そんな角度から眺めることも、
生きづらさを見つける、方法の一つだと思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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