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等身大で生きることが出来ない人

ひとつの会社に三十年、四十年、勤め上げ、出世競争を勝ち抜いて、副社長にまで登り詰めた人が、

引退した途端に呆けた様な状態に陥った、などという話しは、何度も聞いたことがあります。

おそらくその人は、会社の役職より他に、自分の価値を見い出せていなかったのではないか、と思います。

つまり、その人は心の中に、
確かな【自分】という意識、を育てることに失敗した人、なのではないか、と思うんです。

確かな【自分】という意識があった上での、職業意識、と、

確かな【自分】が無く、職業や肩書きに人格を丸ごと乗っ取られた様な状態は、全く違います。

【自分】がある人は、仕事の際はスーツや作業着や制服に着替えますが、
中身は【自分】です。

職業意識は身にまとう仕事用のコスチュームであって、
中身は【自分】な訳です。

仕事場とプライベートが全く変わらない、という人は、ほとんど居ないと思いますが、

それは、仕事は職業意識というコスチュームに着替えて、家庭ではコスチュームを脱いで、プライベートな自分に戻る、というON・OFFの切り替えです。

中身は【自分】です。

【自分】は、幼い頃に親から肯定的に、無条件に受け容れられる中で芽生え、

少年期から、青年期にかけての様々な経験の積み重ねによって育ちます。


それが、幼少期に否定や拒絶に満ちた親子関係の中に身を置くと、【自分】は満足なカタチで芽吹くことが出来ません。

発育不全の弱々しい【自分】には、経験は積み上がることが無く、

社会に出ても、【自分】は未発達で脆弱です。

言い方を変えると、肉体的には立派な青年でも、心の中の【自分】は無いに等しい状態です。

【自分】は無いのに、会社に行く為にスーツを着込みます。

スーツの中身は、空っぽです。

スーツの中の【自分】が、職業を意識するから、職業意識、です。
プライベートとは違った責任や、やり甲斐を着込んで職場に出掛けます。

スーツの中身が空っぽであれば、スーツがその人です。

その人にとっては、職業や肩書きが、全てになってしまいます。
職業意識をまとうのでは無く、
もはや、職業、肩書きに呑み込まれた状態になります。 

年齢を重ね、一線を退いたら、空っぽの自分しか残らないのですから、呆けてしまうのも頷けます。


心の中に【自分】が無い、つまり、自己喪失の状態にあり、尚且つ、それに気が付かず、人生を歩んでいる人は、思いの外、多いですし、
人生を考える時、とても重大なこと、とも思っています。

例に挙げた、副社長、では無くても、自分の社会的な肩書きに呑まれる人は、沢山います。

アルバイトのチームリーダーになった途端に、必要以上の命令口調になる人は珍しく無いと感じています。

どんな肩書きなのかに関わらず、肩書きに人格を乗っ取られる人は、他者と自分の立ち位置が上か下か、がその人の態度を決めますし、

上か下かの判断が難しい場合は、張り合います。

相手にも張り合う意思があれば、噛み合うかも知れませんが、張り合う気も無い人からしてみたら迷惑な話しです。

たとえば、業種も違う初対面の人に、開口一番「アナタは…」と、アナタ呼び、します。

確かに、尊敬を表す呼び方なのが起源ではあっても、現代に於いては、同等もしくは目上の者が目下の者に対して使う言葉であることは、辞書やネットで調べるまでも無く、肌感覚で分かりそうなものですが、

肩書きに呑まれる人は、場に相応しく無い、アナタ呼び、をしがちである様に感じています。

また、たとえば、面識の無い人のスピーチやプレゼンテーションを聞く機会があり、事後に、プレゼンの主と言葉を交わす際に、
「解りやすかったですよ、上手なプレゼンでした、大したもんです」
などと、一段上から褒めます。

言われた方は、どの立ち場から言ってるんだ、と呆れたり、気分を害したり、少なくとも、良い気分にはならないことは、感覚で分かりそうなものですが、

肩書きに呑み込まれた人は、上下に拘り、そんな物言いをしがちです。

おそらく、副社長のその人は、社長や会長や総理大臣には、「アナタのスピーチは上手でした、分かり易くて、大したもんだと思いました」とは言わない筈です。


【自分】が無いままに肩書きに呑まれた人は、等身大の自分がありません。

だから、退職して誰も、副社長、と呼ぶことも無ければ、特別扱いする人もいない生活は、空っぽの自分と対峙せざるを得ない初めての、危機、なのです。


肩書きに呑まれるのも、

悪質なカルト宗教の教祖に心酔するのも、

悪い仲間に引っ張られて道を外れるのも、

心の中に、確かな【自分】という意識、が育っていないことが根本にある、と思っています。


今、事業が上手くいって、飛ぶ鳥を落とす勢いだったとしても、

意中の人とゴールインして幸せの渦中に在ったとしても、

人は生まれる時は、一人ですし、
生命が尽きる時も、一人に戻ります。

そうであるならば、

何は無くとも、先ず、

【自分】を持って、

自分自身に満足する、そのことが、

豊かに生きる、ということだと思うのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム









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