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生き方に良いも悪いも無い、と言うけれど

私の母は自分と向き合うこと無く生きた人です。

人の生き方は様々で、良い生き方、悪い生き方というものは無い、と言います。

母は過酷な幼少期を過し、生きづらさを抱えた人です。

生きづらさを抱えたまま、母親になりました。

生きづらさを抱えたまま親になった人は、母親としてあるべき姿になる事が、とても難しいのです。

本来、母親は我が子を受け容れます。

その子が生きる基礎となる、自分の存在に対する安心感を育む幼少期、
母親はその子を無条件に受け容れ、守ります。
神々しいまでの愛情を注ぎます。

そうした幼少期を過ごした子供は、自分には価値が有る、という安心感を手にします。


しかし、生きづらさを抱えたまま母親になった人は、

受け容れるよりも、受け容れて欲しいのです。
守るどころか守って欲しいのです。
無条件の愛を注いで欲しいのです。


生きづらさを抱えて母親になった人は、ここで二手に分かれます。

自分と子供の親子関係から、自分が親の役目を果たせているのか、という疑問を持ち、母親になった事を契機に、自分と向き合いながら、子供と一緒に成長する事を選ぶ人と、

自分が抱える生きづらさを、そっくり子供に背負わせて、自分が身軽になる生き方を選ぶ人とに分かれます。

生きづらさを抱えて母親になる時は、気づきを迎えるチャンスでもあります。

気づきを迎えるチャンスは、人生に於いて何度か訪れます。

人との別れ、人生を左右する程の失敗、など大きな喪失の体験によって、気づきを迎える場合が多い様に思います。

ところが、母親になる時に限っては、喪失の体験では無く、新しい生命との出逢いが気づきの契機になるのです。

新しい生命との出逢いが気づきの契機、などと言うと、幸せが降って来る様に聞こえてしまうかも知れませんが、

生きづらい人が母親になることは、気づきの大きなチャンスであると共に、とてつもない苦しさも味わうことにもなります。

受け容れるよりも、受け容れて欲しい人が、受け容れなくてはならない立場に立たされます。

守って欲しい人が、幼い我が子を守ります。

無条件の愛を注がなくてはならないのです。

しかも、待った無しの、休み無しで母親でいなくてはならないのです。


たとえば、子供が屈託なく笑うことが腹立たしかったりします。
自分ばかりが苦しくて、苛立って、子供の笑顔が憎たらしく思えたりするのです。

気づきに向かう人は、その事に疑問を持ちます。

子供が笑うことに、どうして苛立ちを覚えるのだろう、と疑問を持ちます。

疑問を持ちながら、時にそんな自分を責め、時に子供に辛く当たり、ぶつかり転びながら、気づきに向かいます。

待った無しで、立ち止まる事も出来ない状況で、気づきに向かう生きづらい母は、苦しさが大きいだけに、より深い愛に、より広い人間性に近づく様に思います。


その苦しみたるや如何ばかりか、と感じるだけに、
無抵抗で無力で、何をしても自分を慕う我が子という存在に、
生きづらさという荷物を全てそっくり背負わせる生きづらい母親が多くいる事も理解出来ます。

冒頭で触れた様に、私の母は、我が子に自分の荷物を残らず背負わせる生き方を選びました。

子供と共に成長する道を選ぶことが、苦しみを伴うことも理解出来ますから、

その意味で、生き方は様々で、良いも悪いも無いという事は分かります。


しかし、母は老い、人生の最終章にあっても、
いまだに、誰かに自分の荷物を背負わせようと躍起になります。

老いさらばえた身体は、自由が利かず苦しいと思います。
しかし、今度ばかりは、老いの苦しみを誰かに肩代わりさせる手段はありません。

生命のカウントダウンを受け容れることが出来ない様です。
残された時間を楽しむ事も、慈しむ事も、どうやら出来ない様です。

口をついて出るのは、泣き言、恨み言ばかりです。


自分と向き合うチャンスに目を背ける生き方を選択し続けた人は、

腹の括り方を知ること、を放棄した人に思えるのです。


自分と向き合うことから目を逸らし続け、
誰かに重荷を背負わせ続けることは、

自分の人生から、一時的に苦しみを追い出しても、

誰にも肩代わりしてもらう訳にはいかない、老いや死に直面する局面では、

苦しみは戻って来る様に感じています。


人の生き方に良いも悪いも無い、という事が、老いた母の今を目にするにつけ、

私の中では、言葉としての理解に留まり、これで良かったのだろうか?

と、どうしても思ってしまいます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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