世の中には、優しい人もいますが、ズルい人もいます。
そしてズルい人は、自分が抱える無価値感を解消する為に利用し易い相手を的確に探し出します。
これは、ズルい人は、カモに出来る相手をいつも物色しているからですし、
ズルい人は、やはり騙す人、欺く人に囲まれる親子関係や人間関係の中で育ち、
慣れ親しんだ環境で、触れた事があるタイプを、言わば匂いや、肌感覚で見つけ出します。
ズルい人と、利用される人は同じコインの表と裏です。
どちらも、否定され、拒絶され、利用される環境に育っています。
ズルい人は、親の言動を見て習い、利用される人は、親からとことん利用されて生きて来ました。
似た環境に育った、コインの表と裏ですから、条件やタイミングによっては、表が裏に、裏が表に置き換わり、
ズルい人だった筈が利用される側になったり、利用される側だった人が、利用する側の立ち場になることも珍しくありません。
いずれにしても、愛の無い環境に育った人同士は、慣れ親しんだ匂いに惹かれ合います。
いじめっ子は、いじめられっ子を見つけ出します。
分かり易い、いじめる、いじめられる、ばかりが利用の仕方ではありません。
仲がいいフリをして、貶めるパターンも実に多いのです。
虐待という概念が世に広く知られる様になってからは、
家庭に於ける肉体的にダメージを負わせる様な虐待は、確かに少なくなったのだと思っています。
では、虐待自体は減ったのか、というと、そうではなく、人口が減少した分、虐待の件数は減っても、割合いで見れば、決して減ってはいない、と思っています。
肉体的虐待は、心理的虐待に姿を変えて、今も昔も変わらない割合いで密かに行なわれていると思うのです。
家庭の虐待が、傍からは分かりづらい心理的なものに姿を変えたことで、
虐待は痛めつけることから、騙すことにシフトしたのだと思います。
過干渉はその典型で、傍から見たら、子供の世話を焼くお母さんに見えてしまいますが、子供を騙して確実に心を蝕みます。
親が先回りして何でもやってしまい、子供の感情を無視し、子供から成長の機会を奪ってしまうのが、過干渉な親の基本線ですが、
先回りして親が何でもやってしまうのではなく、口で先々の心配を子供にぶつけ、手は出さないパターンが今はとても多い様に感じています。
「お前は何も出来ないから心配」といった言葉を投げるだけで、手は動かさないパターンです。
「お前は何も出来ない」と言った時点で子供は無力を感じます。
いつもいつも、心配、心配、と言われることで、子供は自分は何も出来ない、と擦り込まれます。
自分は無価値だ、と思い込みます。
そして、子供が親の心配した通りに、失敗すると、
「だから言ったじゃない!」と責めます。
或いは、
「ほーら、言わんこっちゃない」と嘲笑します。
親から、心配、という言葉を浴びせられる時点で子供は、いたたまれなくなっています。
申し訳なく思っています。
自分を恥じています。
そして失敗し、叱責されたり、嘲笑されることで、その子は自分に失望し、自分に無価値の烙印を押します。
無価値の烙印は、自然に消えることはありません。
その子は、いつも不安です。
ただそこに居るだけで、無価値を感じるのですから、不安です。
その不安を、ズルい友人は確実に嗅ぎつけます。
その子は、友人がズルいことに気がつきません。
親と同じ匂いがするから、惹きつけられます。
友人は、仲が良さそうに振る舞いますが、時折、責めます。
時々、嘲笑います。
友人は「大丈夫か?心配だよ」と優しい事を言います。
でも、失敗したら、「だから言ったじゃないか!」と責め、
「ほらね」と嘲笑します。
その子はそれを、親しさ、だと思います。
親が、叱責しながら、嘲笑しながら、「お前を思えばこそ」と言っていたからです。
親も、その友人も、当人は本当に心配して、本当にその子の事を思っている、と感じています。
親も、友人も、自分が無価値感から目を背ける為にその子を利用している意識はありません。
何故なら、親も友人も、親しいとはそういう事だ、心配するとはそういう事だ、と信じて生きて来たから、です。
つまり、親も友人も、親しさや愛が無い環境しか知らないから、です。
そして勿論、その子も愛を知りません。
無価値の烙印は放っておいても消えません。
放っておいても消えませんが、その烙印は、単なる思い込みです。
家にいても、学校や職場にいても、引っ越しても、転校しても、転職しても、
いつも何故だか、苦しい、
皆と仲がいい筈なのに、寂しくてたまらない。
そんな思いを抱えているなら、
自分の心を、
覗き込んでみる時なのかも知れません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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