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「潔さ」から遠い者、汝の名は人間

霊長類は、動物分類学の上での霊長目(Primates)に相当し、
動物のうちの首長たるものという意味だそうです。

地球上に200種類もいるそうで、その中に私達、人間も含まれます。

確かに知力では人間に並ぶ者は、地球上には存在しないでしょう。

人間は「知」について抜きん出た存在です。

しかしながら、人間が作り出した学問のひとつである動物分類学において、
自らを「動物のうちの首長たるもの」と名付けるのは、いささか調子に乗って(笑)はいまいか、と思ったりもします。

人間は身体能力的なことでは、身長150〜200cm程度、体重40〜100kg程度の生き物の中で最弱クラスのポテンシャルです。

どんなに鍛え上げたアスリートでも、オリンピック選手でも、他の動物達に大きく劣ります。

その身体能力を補って余りある程の知力を人間は持っています。

自動車やバイクに乗れば、何百キロのスピードで地を駆け、
飛行機を使ってどの鳥よりも、速く高く飛びます。
宇宙や深海にも行くことが出来ます。
誰もがポケットにコンピューターを携帯し、その場に居ながら世界と瞬時に繋がります。

そんなことが出来るのは、人間様を置いて他にありません。

ついでに言うと、時に開発という名の環境破壊を推し進めます。

そんなことを仕出かすのも人間様だけです。


そんな他の種の追随を許さない圧倒的な知性をもって、地球上の秩序をことごとく自分都合に変えるのは、「首長」ならでは、なのでしょうか?


科学、文化、芸術、挙げればキリがない程の「知」の産物を量産しながら、

「動物のうちの首長たるもの」である人間は、
自分達が動物であることを、いつの間にか忘れてしまったのかも知れません。

他の動物達を見るにつけ、犬猫にしろ、鳥にしろ、ネズミも、昆虫も、

人間の様に、肥大した「思考」に支配されない分、とてもシンプルです。

ただ生まれ、ただ生き、ただ土に帰る。

そんな潔さが彼らにはある様に思います。


人間は「知」によって、栄華を極めた替わりに、大切な「何か」から離れてしまった様に思うのです。

人間はいつの間にか、
ただ生まれ、ただ生き、ただ土に帰ることが、出来なくなってしまいました。

本当は他の動物達と同じ様に、
そのままで完璧な存在なのに、
こうでなくてはならない、こうあるべき、と様々な制約を自らに課し、何者かにならなくては意味が無い、といった生き方を選びます。

そして天寿を全うする時、ただ土に帰ることが出来ません。
人間関係、相続問題、墓はどうする、喪主は誰がつとめる、
様々な事情や思惑が錯綜し、ただ土に帰ることが許されません。

脈々と続く人間の歴史からすれば、貨幣価値も婚姻制度も、ましてや墓の歴史などは、ごく最近、人間が後付けで考え出した「決まりごと」です。

人間が、ただ生まれ、ただ生き、ただ土に帰る、生き物としての生の営みとは、本来関係の無い事と言えます。

人は世に連れ、世は人に連れ、変化して行くことは否定するものではありません。

ただ、人間はその知力が有るが故に、
様々な「知」の産物を得る事と引き換えに、
生き物としての、大切な「何か」から、離れ過ぎたのかも知れないと思うのです。


人間以外の生き物は、知力が無いからシンプルに生を全うするしか無い、と解釈する向きも有ろうかと思います。

私はそれは、半分程度しか的を捕らえていない様に思います。

彼らは、この世に生まれて、土に帰るまでの意味を知っている様な気がするのです。

私達人間が「知」の産物を得ることと引き換えに離れてしまった、
大切な「何か」の傍らに彼らは在る様に思うのです。

大切な「何か」とは、
とても大きな「何か」だと思っています。

スピリチュアルを語るつもりは無いのですが、
彼らが生を、淡々と粛々と全うする姿には、迷いが無く、
そこにあるのは「潔さ」の様なものだと思うのです。

自然界は弱肉強食で殺伐とした世界だと言います。
確かに、生きることが難しい世界だと思います。

しかし、彼らは大きな「何か」の傍らに在る安心感があるからこそ、厳しい世界に生きることが出来る気がするのです。


私は山や海に出掛けては、鳥や動物、植物を見るのが好きです。

そうしていると、彼らが弱肉強食で殺伐としただけの世界に生きている様には、どうしても思えないのです。

次の瞬間、天敵に捕食される危険と隣り合わせなのは間違いないのですが、

それでもサギは優雅に水辺を歩き、トンビは気持ち良さ気に高く翔び、円を描きます。

蝶は花から花へひらひらと移り、セミは今を盛りと鳴くのです。

彼らは大きな「何か」の傍らに在るから、次の瞬間、天敵に襲われるかも知れない弱肉強食の自然界に居ても、

個の歓びを満喫しているのではないか、と思うのです。

つまり、大きな全体性を知る安心感があればこそ、
厳しい自然界に在りながら個の歓びを感じて生きている様な気がするのです。

小動物やましてや、昆虫や草花に「歓び」など無い、と思われるかも知れません。

確かに、人間が感じる「歓び」とは異質なのかも知れませんが、

私は生きとし生けるものは、その生きもの固有の「歓び」が有る様に思ってます。

なぜなら、私達が自然界に足を踏み入れた時、殺伐とした空気を感じないからです。

私達が動物達を見て、鬼気迫る感情を持たないからです。

私は彼らが大きな「何か」から安心感をもらい、彼ら固有の「歓び」を感じて生きているから、

私達がそれを感じ、受け取り、癒やされるのだと思っています。


人間ほど知的で、

人間ほど愚かな生き物は無いと思ってます。

小さな生命の「潔さ」を見習って、

淡々と粛々と、

それでいて歓びに満ちて生きる人になりたい、

そう思ってます。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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