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無意識の親への恐れは、終戦を知らずジャングルに潜む兵士の恐れ

育つ環境は、その人にとって重要です。

特に幼少期の環境は、最重要です。

幼少期はまだ社会との接点がありません。

ですから、

幼い子供にとっては、親との関わりが世界の全てです。

この頃の親との関係性が、その子の生きる基本的な構えを作ります。


人のことを動物になぞらえるのは、どうなのか、という声も聞こえそうですが、

犬に育てられた猫は、動作が犬に近くなるそうです。

歩き方から、姿勢から、犬に近くなるらしいです。

おそらくは、生まれつきプログラムされた「本能」は、人よりも猫の方が色濃いと思うのですが、

それでも犬に育てられたら、犬の様な基本姿勢が身に付いてしまうらしいのです。

持って生まれたプログラムを環境が凌駕すると言えます。


人の場合は、この世界に生きとし生けるものの中で、「本能」から最も離れてしまった生き物ですから、

持って生まれたプログラムよりも環境に引っ張られる度合いは強いと思われ、

その意味からも、幼少期の親との関係性は、その子の生きる基本姿勢を決定づけるものだと思っています。


しかし、幼少期に基本姿勢が決まったから、一生涯そのままか、というと、そうでは無く、

幼少期の親との関係性から身についた基本姿勢を、変える人は沢山います。

人生の途中で、生きる基本姿勢が自分にとって好ましく無い、と感じたなら、

自分と向き合い、基本姿勢を変えることは出来るのです。


しかし、無力な幼い頃に、世界の全てである親から擦り込まれた基本姿勢は、

自分にとって好ましく無い、と気が付くこと自体が、とても難しいことなのです。

ここで言う、「自分にとって好ましく無い」基本姿勢とは、

親から擦り込まれた「自分には価値が無い」という言われ無き思い込みです。

言われが無い、のならば手放せばよいのですが、
物心ついた頃には、「自分には価値が無い」と思い込んでいるのですから、
その景色しか知らないその人にとっては、手放すも何も、
自分が自分のことを「価値が無い」と思っていることに気が付くことは簡単ではありません。

気が付くことが出来たなら、言われ無き思い込みを手放す行程の半分までは進んだ、とすら言えると思います。


気が付いて尚、
全行程の半分まで進んで尚、

そこから先に進むことを阻むのが、無意識の親への恐れや遠慮です。

「親が怖いなんてことは無い」
と言う人も多いでしょう。

「親に遠慮なんかしてない」
果たしてそうでしょうか。

意識の上では、そうだと思います。

但し、親との関わりによって無価値感を擦り込まれたのは、幼く無力な頃のことです。

その時は、親は世界の全てだったのです。

頭では今の自分は成長していることも、親は年齢を重ねて弱くなっていることも、当然わかっています。


たとえば、
一戸建ての家を建てることにしたとき、親の承諾が必要であるかのように思ったりしないでしょうか。

大きな決断をするとき、親の意向や感情、つまり親がどう思うだろうか、ということが反射的に過ぎらないでしょうか。

もしも、そうならば意識の上では、そうで無くても無意識では、今だに親を恐れ、親に人生を譲っている可能性があります。

更に言うと、心の真ん中の「確かな【自分】という意識」が座るべき場所に、親が居座り、結果として【自分】が小さく縮こまっている可能性があります。

【自分】が縮こまっていると、当然ながら自分を頼りなく感じます。

活き活きとした感情を持ちづらく、人生が他人事の様に感じられます。

つまり、自分の人生を生きられません。


幼い頃の擦り込みに恐れを持つことは、終戦を知らずジャングルに潜む兵士の様なものです。

自分は成長し、親は老いました。

もう恐れなくても良いのに、無意識に恐れ、心を人生を、明け渡しジャングルに潜んでいます。

実に悲劇的です。

自分が心を明け渡しているか否かは、何かと、ふと、親がどう思うかが気になるかどうかに注意を払うとわかることがあります。

些細なことですが、そんなことから、
自分は心の真ん中に【自分】を座らせているか、
その場所を親に占拠されているか、
がわかります。


幼い頃に擦り込まれた「無価値感」は過去の遺物です。

幼い頃に擦り込まれたという事実は、過去の望まない出来事です。

成長した自分は、無力な幼児では無いのです。

無意識の恐れを取り払ったとき、

心も、人生も、

自分のもの、になるのだと思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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