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 母の日。SNSの画面はピンク色に染まり、あちこちでカーネーションの動画が飛ぶ。華やかで柔らかい、母の日の色。
 教育を生業として掘り下げていると、社会にたどり着く。社会を見渡すと、今まで「当たり前」だと思っていたことがとても脆く、不確かなものだということに気付く。母という存在を想う時、心に浮かぶ色は何色だろう。それが何色であっても、正解はない。母の日に誰に感謝するかは、自分で決めたらいい。感謝しなくったっていい。
 私はこの「当たり前」に支配された社会の中で「普通」と戦った母を思い出してみることにする。

吉岡たすく先生

 人生50年近く生きてきてやっと気付いたことだが、私の母はかなりユニークな子育てをしていたと思う。あまりテレビを観ない人だったが、土曜の朝早くの吉岡たすく氏という児童文化研究家の講演だけは毎週欠かさず見て一生懸命メモを取る母の姿は、よく覚えている。

 私の家に最新のおもちゃはあまりなかったが、大小様々なブロックといつも西洋紙と母が呼んでいたコピー用紙みたいなものがどっさりあった。母がどこかで見てきて選んだ我が家のスタイルだったんだろう。
 私たち兄弟4人はそのブロックである時はお店屋さん、ある時は乗り物ごっこ...と毎日いろいろな世界を作っていた。ブロックで作れない世界はなかった。そして紙を使って学校ごっこ。学校のプリントを真似た算数の問題なんかを作って弟や妹に解かせ、学校ごっこをしたり、ただただ絵を描いたり。最新のおもちゃを友達に見せてもらって観察して帰り、家でブロックや紙でそれに似たおもちゃを作って遊んでいた。
 次々に新しいおもちゃを買ってもらう友達のことを羨ましくも思ったが、それを次のクリスマスにサンタに頼もう、と楽しみに待つ日々はシンプルに幸せだった。

 前述の吉岡たすく氏の言葉を今自分が親になって見てみると、こんな言葉が見つかった。母の姿勢はまったくこの通りだった。

『周りが「ダメ」と言っても、母親だけが「この子は!」と信じていたら子どもは必ず助かる。』(吉岡たすく氏)

 親になってみて思うのは、これは簡単そうで難しいということ。特に周りが「当たり前」「普通」にまみれた社会の中でその相対的な価値基準に頼らず自分だけの価値基準で我が子のことを信じ抜く、ということは本当に危険にも思えるし難しい。
 でも母はそれを私が家を出るまでの間、ずっと続けた。好奇心旺盛でなんでもやりたがる私の様な娘を育てるのは、本当に大変だったに違いない。
傷つきやすいのに勝手に飛び出して何にでもぶつかっていく。そして案の定傷ついて帰ってくる。そんな私を、毎回何も聞かずに慰めてくれた。
 
 大学を出ると単身海外に飛び出した。出発前、「私にもしものことがあったら開いて欲しい」と両親に渡した手紙には『もし海外で命を落としたら、「行かせなかったらよかった」と思わないで欲しい。このチャレンジをせずに生きていることよりもずっと価値があることだから。』と書いた。
私がしたいことは何でも応援してくれた。だからこそ、私に何かあった時にその自らの姿勢を悔いることだけはして欲しくなかった。いつも私を信じていてくれたからこそ、私はいつも自分の人生を生きることが出来た。

ニート

 帰国後は、バイトをしたりしなかったり。時々お金が溜まったら海外に二週間くらい出たりと気ままな生活をしていた。海外で感じてきたことと、日本の社会生活とのギャップに内心苦しみながら、今後日本で生きていく自信を失いながらも何かしないと、と焦るばかり。そんな20代半ばの私、きっと「これからのこと考えているの」とか「結婚とかどうするの」とか言われていたらぶっ壊れてしまっていたはずだけど。母と父は何も聞かずにいてくれた。私はそれを勝手に信頼と受け取って、その信頼を自分自身にも向けていた。「きっと何か見つかるだろう」とのんびり過ごした20代。
 周りの人たちには仕事を聞かれていただろう。ご結婚は、とかいろいろ聞かれていたに違いない。本当にこれで正しいのかと、きっと不安になっただろう。でも母はそれを私に見せなかった。

 再度言う。「なにやってんの」「しっかりしてよ」なんて言われようものなら、きっと私は一気に壊れてしまったと思うけれど。人生の悶々とした時期をただ悶々と過ごさせてくれた母と父には感謝しかない。そんな自問自答しながら過ごす日々が今の生き方にどれほど良い形で影響しているか計り知れない。

 文字通り母は周りが「ダメ!」と言いそうな姿の私を、ただ信じてくれていたのだと思う。

継承

 そんな私にも3人の子どもが産まれた。御多分に洩れず社会の「当たり前」「普通」に踊らされもがきながらスタートした私の子育てだったけれど、困難に出会った時や岐路に立たされた時に参考にできるのは自分の子ども時代だった。気になるからこそ、信じて見守ることを始めた。
周りが「ダメ!」と言いそうな状況の中で、私だけは子どもを信じていようと思った。

 困難の度にそこに立ち返ることで、私も子どもたちも「普通」に囚われない強さを得た。その楽なこと。家庭はシェルターとなり、子どもたちはここでは完全に羽を休めることが出来る。力を溜めたらお行きなさい。やっとそう言える程に私もたくましくなった。
 周りの「当たり前」「普通」に惑わされそうになる度に、母の強さを想った。我が子を信じる心の強さを私が生まれて50年近くずっと貫いている母の姿は、私のモデルそのもの。そして私の根っこで私を支えてくれるもの。

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