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ピアノと勉強が好きだった少女の話

「男尊女卑の毒」は今も日本社会に暗い影を落としています。「女性だから/男性だからこう生きろ」と強制され、人々が苦しむ時代はまだ終わっていません。性別に囚われることなく自分らしく生きたいと願うすべての方に届けたく、Twitterで10万シェアされた3世代にわたる家族の体験を再掲します。

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母方の祖母が90近くで亡くなった時、母は泣いて私に訴えた。

「小さい時ピアノを頑張って、弾けた曲を一度母に聞いてと言ったら断られた。『嫁に行った先で教養あるお嬢さんと言われるために習わせただけや。ピアニストにさせたい訳やない。夢中にならんとき』って」

男尊女卑は子に消えない傷を残す。

数学が得意だった母は進学校に進んだ。

4年制大学進学も希望したが「女の子が勉強できると可愛げない女になって、ええとこの嫁にもらわれへん」という祖母の意向で短大家政科に進学。卒業と同時に私の父と見合い結婚した。「可愛がってもらいやと嫁に出された。私はペットだったの」と母は吐き捨てた。

運動や数学で1番を取っても嫌な顔された、門限17時を数分過ぎただけで叱り飛ばされた…。

極めつけは母の兄の話。叔父は東京の大学に入学後、親や親族のカネで遊びまくり中退。親族企業に拾われた。「私に認められなかった4年制大学進学の特権を、兄は私の目の前でドブに捨てた」と母の慟哭は続いた。

祖母の逝去時、私は葬儀社で働き、荼毘までの限られた間に遺族の思いの丈を昇華できる場を作る大切さを感じていた。

通夜の前日、母に提案した。「おばあちゃんと一晩過ごしたら?最後、好きなだけ文句言えばいいよ。悲しかったこと、言えなかったことも」と勧めた。翌朝、母は目を真っ赤にして言った。

「全部言ったよ。でも『なんであの時』と母に聞いても、絶対に『女の子だから』って言われるに決まってる。私を認めてほしかった。頑張ったこと、褒めて欲しかった」と。

そして「母に抱っこをせがんでもいつも面倒そうで、抱いてくれなかった」と寂しそうに言った。
母はそれほど囚われていた。

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母の新婚時代は大阪万博の頃。

自由恋愛を謳う映画や小説、音楽が世にあふれ、憧れていた母は結婚後、「熱烈に愛し愛される経験」を父に強く求めた。愛の言葉がほしくて夫と文通しようとさえした。

勉学だけが取り柄、非モテ街道まっしぐらのまま見合い結婚した私の父はそんな21歳の妻を持て余した。

結婚の翌年、姉が生まれた頃から父は「資格の勉強がしたい」「出世に集中させてほしい」と帰宅が遅くなり、ワンオペ育児のまま次女の私が誕生した。

見知らぬ土地で子どもとだけ向き合う毎日。寂しさもあって、母は徐々に精神の均衡を失っていく。

母は、幼少期から刷り込まれた良妻賢母像を捨てることがどうしてもできなかった。母乳神話も分厚い育児書も、そのまま実践しようとした。

「家族のために栄養を考えて作った食事」は母の自己承認欲求の塊だった。私が残せば吐くまで食べさせられた。私はごちそうさまの後、トイレで吐く方法を覚えた。

夫婦喧嘩になると「あなたのために!子どものために!」と絶叫する母が目に焼き付いている。激昂すると高速道路を運転中の父に殴りかかったり、姉と私を深夜に車に乗せ、父の姉の家にアポなし突入。号泣しながら不遇を訴えたことも。1年の半分は母の実家に帰っていたので、幼い時の私は関西弁だった。

そんな状況でも祖母に「跡継ぎの男の子を産めば夫婦関係が安定する」と説得され、母は再び妊娠した。

生まれたのは妹だった。

母はPTAや習い事でも自己承認欲求が満たされず、苦しかったのだろう。就職を目指した。短大で取った家庭科の教員免許を活かし、小学校の補助教員として働き始めた。

当時のシステムの不備か、就職未経験の母は産休に入る教師の代理でいきなり担任を持たされた。

同時期に父方の祖母と同居することになったので、きっとサポートを期待したのだろう。しかし祖母は妹の送迎以外「家事は嫁の仕事」と一切手伝うことはなかった。ふくよかだった母はどんどん痩せて行った。

3人の育児・家事協力ゼロの中、初就職で小学校担任。
私が覚えている母は、猛烈な勢いで帰ってきて米を炊くのを忘れた私を殴りながら夕飯を作っていた。深夜早朝に採点し、運転中に赤信号で居眠りする姿も覚えている。
そして体調を崩した母は数年で退職した。辞めた時は脱毛症でやつれ切っていた。

経済的には父の収入で全て賄えたが、自分のお給料を手にする喜びを知った母は、あきらめなかった。
通信教育で宅建主任を取得し、若干体質黒めの不動産屋で働き始めたのだ。だが業界未経験の母に求められていたのは、資格の名義貸しだけだった。母が持ち前の潔癖さから断ると、すぐクビになった。

父は妻子に無関心だった。挫折感が埋められず、母は娘たちに自己実現の肩代わりをさせようとしたのだろう。週2パートで中学受験講師をしながら、教育ママが本業になった。

私の習い事は「母がやらせたいもの」だけ。水泳、公文、フィギュアスケート、エレクトーン、バレーボール、英語塾、家庭教師…。

素直な姉と違い、私は嫌なものを嫌と口に出した。母は私が思い通りにならないと、文字通り地団駄を踏んだ。「せっかく!将来を思って!あなたは恵まれてるのに!」と。

男の子と遊んでいると「不潔」と言われ、私は友達や学校のことを隠すようになった。母は私を尾行するようになり、暴力が加速した。

真面目だった姉は、母と目指した難関国立大に2年連続落ち、泣きながら第3志望に行った。

私は現役で第1志望に合格したが、母の暴力、尾行、過干渉に耐えきれず、1年生で学生結婚をして家を出た。母はまたも自己実現に挫折した思いだったのだろう。
「私はあなたを途中で取られたのよ!」と叫んだ。

数年が過ぎ、祖父母に介護が必要になった。母の兄に「女の子の方が気心知れてるからな。よろしく頼むわ」と言われ、祖父母もそれを望んだので、母は自宅近くの介護施設を探し、両親を呼び寄せた。

入居費用は数百万円。資産家の祖父母には訳もない額だった。ところが祖父が言った。

「現金ないねん」

仰天した母が祖父母に訳を聞くと、大学中退後、親族企業の役員となり、後に経営者になった叔父(母の兄)に度々資金繰りを相談され、その度に貸していたことがわかった。その額数億円。

祖父母にせめて介護費用を返せと母が迫ると叔父は言った。

「俺は社員抱えてるんや!お前は女やし家で見ることもできるやろ」

母は親族に相談した。何より辛かったのが祖父母の反応だった。

「女やのにお兄ちゃんに生意気言うて親族に言いつけて、お兄ちゃんに恥かかせた」

やがて祖父と叔父名義で、弁護士から通達が来た。祖父母への借金は企業への貸付であり、母に口を出す権利はない。今後実家への連絡は弁護士を通せと。

母の精神は壊れてしまった。

当時近所にいた私の家に毎日来て、親、夫、姑への恨み、50年以上蓄積された男尊女卑の毒、実家に拒まれた辛さを吐き出し続けた。
やがて現実も正しくとらえられなくなり、親族や近所にも迷惑をかけた。私は何カ月も母を説得し、病院を探してメンタルの治療に向かわせた。

病院の先生から母がいわゆるアダルトチルドレンであること、そしてある疾患を発症したことを聞かされた。

幸い治療はうまく行き、日常生活に支障がないほど回復した頃、祖父母から謝罪があった。

叔父の会社が倒産して、共に認知症の症状が出始めた祖父母に、数千万円だけ返されたことも後にわかった。

母はそれでも祖父母をもう一度呼び寄せると言った。介護施設にいる認知症の2人の元に毎週通った。日々のたわいない話を両親にして、何とか幼い頃の心の穴を埋めようとしていたのかも知れない。

祖父は数年で穏やかに、祖母はさらに数年、険しい顔で数秒に1度「アホ、バカ」と言いながら死んだ。

母はシニアと呼ばれる歳になってから通信大学で学び、念願の学位を手にした。

本来は勉強がめっぽうできる人だ。親のせいで精神的なバランスがうまく育ちきれなかったが、コミュニケーション能力も高い。伸ばしてもらえる環境で育っていたら、こんなに苦しまず、天真爛漫に社会で活躍していたはずだ。

私がカウンセリングを受けた10年前、一番時間がかかったのが親との関係に折り合いをつけることだった。

母は加害者だが、その前に被害者だ。理解はすれど、未だに承認欲求を露わにされると嫌悪感を持ってしまう。

男尊女卑は毒だ。世代間で連鎖する毒だ。
私は、自分の子に連鎖させることが怖い。

私の代で男尊女卑の種は潰す。私が選択的夫婦別姓を望むのは「家に従属する女」という呪いを断ち切るため。性別によらず人生を公平に選択できる国にするため。

苦しみ続けた母のため、傷ついた私のため、そしてまだその傷を持たない娘のために。

読んでくださった方ありがとう、力を貸してください。

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最後まで読んでくださったあなたに、特に力を貸していただきたいことをまとめました。題して「男尊女卑につける薬『選択的夫婦別姓』」😊
どうか私と、選択的夫婦別姓への賛同という形で、第一歩を一緒に踏み出していただけませんか?
男性の方にもぜひお読みいただければ幸いです。

私が事務局長として立ち上げた「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」にぜひメンバー登録をお願いします。動かない国会審議。一人ひとりが声を上げることが「動け!国会」という意思表示になります。自治体の議会にA4の紙を提出することでできる意思表示、あなたも始めませんか?









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