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君の国語の教科書に『川とノリオ』はあったろうか?

小学六年生の国語の教科書に、それは載っていたらしい。

らしい、というのは私がいつにそれを学んだか忘れてしまっていて、調べたからである。

国語の教科書は好きだった。
もらったその日に、だいぶ先の話まで読んだものだ。


さて。『川とノリオ』を私が何故覚えているかというと、授業中に先生がした質問に上手に答えられないくせに手を上げた思い出があるからである。

『川とノリオ』は戦争を題材とした物語である。教科書にはかならず、一つはこういうテーマの話が入っている。有名なのは『ちいちゃんの影おくり』だろうか?
実は私は、読んだ覚えがないし、授業でやらなかったと思う。

『川とノリオ』は他の戦争題材の話と少し違う気がする。
物語の中には、たえず川が流れている。
この記事を書くのに、読み直した(ネットに載ってる有り難い)のだが、当時は気が付かなかった美しい表現に溢れていた。

川は不変のものとして描かれ、それに相対するようにノリオを含めた人の世界は変化する。
お父ちゃんがいなくなり、お母ちゃんがいなくなり、ノリオは二才から小学二年生になっていく。

何処か淡々と描かれた物語なので、心を動かすにはよく読まないとならないかもしれないなと、大人の私は思う。
川と触れ合ったことのない子供では、この話に出てくる川の事を想像しきれないだろう。
季節が巡ることを丁寧に五感で感じるノリオだからこそ、何処か達観した感覚で語られている物語なのだと私は思う。


そんな『川とノリオ』の最初の方の場面でノリオはじいちゃんが作ってくれたクリのゲタの片方を川に流してしまう。
そしてすぐに、もう片方も流すのだが、授業で先生は「なぜ、ノリオはもう片方も流したと思うか」と言うような質問を私達生徒にしてきた。

私達は小学六年生なわけだから、川に大事なゲタを流したとなったら叱られることくらいはわかるわけである。
だから、そんな事をする意味を考えてもなかなか思いつかないのだろう。

みんな、ソワソワざわざわする。

そんな中、私はじっと川とノリオを想像していた。

小さなノリオが遊べるくらいの、透明度の高い川がキラキラと川底の小石を反射させている。
みんな角がとれてまあるい石がひきつめられたような穏やかな流に、どんぶらことノリオの小さなゲタは流れていくのだ。片足だけ。

不意に、猛烈な寂しさが私にやってきた。
あぁ、ゲタがひとりぼっちになってなしまう。
ゲタは二つでゲタなのに、片方はひとりぼっちになってしまう。人に触られることもななく、海に出てしまう。
それが、ひどく残酷で恐ろしいことな気がして、想像の私はゲタを急いで川に流した。
叱られることはわかっていたが、流さずにはいられなかった。
プカプカ追いかけっこのように流れるゲタをみて、安心した。これで、ひとりぼっちではない。


だから、手を上げた。

そして、指名されて声にしようとした途端、なんだか上手に言葉が出てこなくなった。
一生懸命に説明するも、伝わらなかった事だけが私に伝わった。
椅子に座ってから落ち込んだ。
せっかく、みんながわからなかったノリオの気持ちがわかったのに、何も伝えられなかったと。


大人になった私は、小学六年生の私の想像力を褒めてやると同時に「たぶん、ノリオはただ、ただ、川の流れに魅了されていたのだと思うよ?笹舟を流すのと同じ感覚でゲタを流したのだよ、きっと」などと別の見解を優しく語ってみたりする。

私はすっかり忘れていたのだが、ノリオはゲタを流したあと川に呼ばれるように自身も川に入り、流され、母ちゃんに救い出され、叱られ、お尻をペンペンされるのだ。

だから、彼は川に魅了されたのだろうと思うのだ。


小さなノリオの感受性の高さたるや、とても神がかっている。
文章にも「幸せな神様」という表現があるが、子供の感性はみな、神様のように自由で、大人の考えることなどはとても現実的であると、物語は語っているようだった。
戦争は大人のものであって、子供や川のようなものには、まるで関係ないかのような、そんな描写なのだ。

小学六年生の私は、今の私と同じく「物」への感情移入が高かったのだろう。
人間ノリオの事などすっぽぬけ、ゲタの事だけを考えていたのだろう。

戦争のことについては、そういう悲惨な出来事がおきたのだな…人が死んでいくのだな…そして、残された人は生きていくのか……なんとなく何か足りないまま……みたいなことを、もう少し子供っぽい感じで捉えていた。
戦争に対しては、怖いとか、悲しいとか、酷いという怒りより、もっとたくさんの事を考えていた。けれど、それを言葉にすると、どうしても人間を否定してしまう気がして、上手く言葉にはならなかった。



いつも伝えたい事は山程あるのに、言葉にならない。
懸命にノートに書くのだが、書いているうちに解ってしまうのだ。
あぁ、この感覚を伝えることはできないだろう。いま、周囲にいる人達に、この感覚は理解できないだろう。わかったような顔をして、わからないだろう。
そんな風に、何故か他人を諦める傾向のある子供だった。

『もしかしたら、そんな事はないかもしれない』という思いもあるから、私はチャレンジを繰り返しはするが、大抵は『やはり』という感じであった。
解ってもらえるよう、表現を変えること、方法や技法を身につけることは出来たろうが、それはもう、そのものではなくなってしまう。
授業は決まった形に、時間内で、整形しなくてはならないから、私は授業に対して疑問や違和感だらけで過ごしていたのだろう。


noteの人たちで国語の教科書を読んで、昔みたいに授業したらどうなるんだろうか、なんて考える。
きっと、子供の私が満足するような、色とりどりの答えが生まれるだろうと思う。
私ものびのびと言葉にできる気がするのだ。


ここまで読んでくれて有難うございました。
あなたが物語から、たくさんの事を受け取れますように。
これから物語に出会う全ての人が、自由にその世界を感じ取れますように。




心の記憶も、体の記憶も、沢山抱きしめてね。





サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。