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プルーストとアシマン

「両思い」って単語を使うことに、いつから恥ずかしさを覚えるようになってしまったのでしょう。
「恋人」「彼」といった言葉なら臆面もなく口に出せるのに、「両思い」って単語を舌先に乗せるだけで今の私は体の芯からきゅっと締め付けられるのです。
映画「君の名前で僕を呼んで」は平日にもかかわらず座席の多くが埋まっていました。
ティーンの頃に、他者によって糊を解きほぐされた湿ったシーツの感触を知った人なら、きっと心と共鳴する映画です。
指先が伝達機能を有した敏感な器官に変容したような感覚をきっと思い出せる。
心の重さを初めて認識した日を。
他者の名前で自分を慈しむときに湧き上がる感情を。

あの頃私は500kmの距離と横たわる山脈を忌々しく思いながら、慕う人を思い会えない8ヶ月間毎夜涙を流していた。
あれから12年が経ち、私はその相手と奇跡としか言いようのない確率で今も両思い(わああああ)でいるけれど、その事実が14歳の私の救いになるかっていうと、それは全く違う。
そんなのわかってる。
だからまさか今になってこんな風に救いの手が差し伸べられると、どうしたらいいのかわからない。

とりあえず行き場のない気持ちの終着点を求め、原作者のエッセイを取り寄せ読んだらプルーストについて非常に綺麗な文章が綴られていて、やっぱり!と合点がいきました。
良かったら取り寄せて読んでほしいです。
アメリカエッセイ傑作編2001


私はドランの映画が好きだけど、彼の映画には父親が不在。
導いて受け止めてくれる大人が不在だから、そこに共感しつつも、心に開いた穴を意識せざるを得ないので辛くて泣いてしまう。
原作者アシマンとそのお父さんとの距離は全く違います。
彼らの紡いだ信頼関係がまるで劇中の登場人物のように美しいものだったのだと思うと、また映画が蘇ってきてしまう。
息子の生命力を弛めず、けれど見守っていることを密やかに伝えようと心がける父親のもとで育った彼だから、人を救う術を知っているのだと思う。

私はもう、あの頃のように違う世界へ連れ去ってくれる風を待つことはしません。けれど、私が望めばきっと誰かの風になることは出来るのでしょう。

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