マガジンのカバー画像

読書記録

54
運営しているクリエイター

記事一覧

生身の、剥き出しの人間 『嫉妬 / 事件』

2022年にノーベル賞を受賞したフランス人作家アニー・エルノー。初めて彼女の作品を読みました。小説ってこんなに生身の人間を直に曝け出すことができるものなのかと圧倒されました。 『嫉妬』は若い元恋人が他の中年女性と同棲することになったことから、筆者と思しき中年女性の主人公が嫉妬に身も心も焼き尽くす物語です。 新しい彼女の名前を元恋人に聞くものの、頑なに教えようとしない彼。次第に主人公の頭の中は、元恋人の新しい彼女という未知の存在に埋め尽くされていきます。狂気すら孕んだその嫉妬

愛と欲 谷崎潤一郎『卍』

人妻園子と年下の学友光子の恋愛を中心に、グルグルと渦巻いてゆく人間模様を描いた谷崎潤一郎の作品です。物語は筆者の元へやってきた園子の告白から始まり、全編を通して園子の言葉で語られます。 初めはただの痴話喧嘩の話かと微笑ましく読んでいたのですが、さすが谷崎潤一郎。ラストの数十ページでどんどん狂気が増していきます。 人間を支配したい欲望、支配されていると分かっていても抜け出せない関係、そして支配されることの心地良さ。人間関係がもつれ合い、騙し合い、駆け引きし、嫉妬に燃え上がる

痛快な中に残る僅かな苦味『坊っちゃん』

夏目漱石ってこんなにもユーモアのある人だったとは!『坊っちゃん』とっても面白かったです。一級の悪口にニヤニヤしていたら、最後はちょっと哀愁を感じ、若い頃を懐かしく思い出す一冊でした。 教師の職が決まり、東京から田舎へ引っ越す主人公の坊っちゃん。 いかにも都会人な彼の放つ田舎を見下す悪口には身に覚えがあります。他人を皮肉る極上の悪口にもニヤリと笑わされっぱなしです。夏目漱石ってこういう意地の悪い笑いも巧みに操れるセンスの良い人だったのかと惚れ惚れしました。 不正を匂わす教頭

2023年を読書でふりかえり

すっかり遅くなりましたが2023年を読書でふりかえり。去年は大当たりで、面白い本とたくさん出会えた1年でした。noteに感想を書けなかった本の中から特に印象に残った何冊かをご紹介。 ジャック・ロンドン 『マーティン・イーデン』 直立できる分厚さ。指の置き場がないくらい紙の端っこまでビッチリと文字で埋まったページ。これは読むのに時間がかかりそうだなあと、おっかなびっくり手に取ったのですが、なんのその。面白すぎて止まりません。一冊の本を読み切れるかどうかって、分厚さや物語の長

初めて歴史の面白さを知る 『日本の歴史をよみなおす』

歴史の本にワクワクしたのは初めてです。 歴史といえば、高校の授業。出来事と人物が年号とともに羅列されるだけの時間が退屈で仕方ありませんでした。ただただ記憶しなければいけない科目という印象で、ほとんどが睡眠学習の時間として消化されていきました。教師との相性が科目の好き嫌いに直結してしまうとは、いま思えばもったいないことです。 大人になると本を読んだり人と話したり、ニュースを読んだり社会を考えるときに、歴史を知っておくことの重要性を感じるようになりました。歴史が分からないと今

就活についてあれこれ思う 『何者』

日本の大学にいた頃、中退した私は就活をする機会がありませんでした。それでも周りで就活する先輩や同級生たちを横目でみて、大変そうだと思ったものです。どうしてみんな揃いも揃って就活するんだろう?そう思って何度も疑問を投げかけました。 「どうして就活するの?」 「入社したらもう着られないようなリクルートスーツを買ったり、みんなと同じ髪型にするの嫌じゃない?」 「自分のやりたいことをどうして企業が募集している選択肢の中から選べるの?」 「その仕事本当にやりたいことなの?」 「やりた

過去と現在と未来を同時に経験するヘプタポッド

人生の選択をするとき、未来に重きを置きすぎるのは危険な甘い罠なのではないか、ということを考えていたときに、一冊の本のことを思い出しました。 折に触れて思い出す一冊というのがあります。それは決してお気に入りの本ではないけれど、なぜかあるワンシーンが頭のどこかに引っかかったまま何年も色褪せなかったり、読みながら疑問に思ったことの答えが出ずに頭の片隅に置かれているものだったりします。 テッド・チャン著『あなたの人生の物語』もそんな本のうちの一冊です。本書を読んでいない方でも、映

アントニオ・タブッキを2冊、須賀敦子さんと

須賀敦子さんの翻訳は、翻訳的なノイズが全く感じられず、驚くほど滑らかでした。 本を開いている間、小さな小石に躓くようなことがなく、すーっと小説の世界に引き込まれていきます。外国語から日本語に直された文章を読んでいるのだと読み手に気づかせません。 これまで須賀敦子さんのエッセイを好んで読んできましたが、翻訳されている作品を読むのははじめてでした。エッセイを読んでいるとその聡明さと静謐な文章力に憧憬の念を禁じ得ないのですが、翻訳もまた一等、格別でした。 須賀敦子さんのファンな

井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室

作文は前置きをバッサリ削って、いきなり核心から入ることが大切。 『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』を読んでいて、ギクっとしました。 noteを書くとき、だらだらっと意味のない文章を重ねてお茶を濁して書き初めがちです。これはよくありません。 本書曰く、書き出しの良い例は川端康成の『雪国』。『雪国』が素晴らしいのはトンネルを抜けてしまったところから書き始めたところなのだと、井上ひさしさんの解説は明快です。 トンネルに入る前の景色を描写して、長い長いトンネルの中で考

人が集まり社会が生まれ、分裂する 『蠅の王』

ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』といえば、子どもたちが無人島に漂流する物語。しかし子どもが主人公の話なんだなあと、ほのぼのした気分で侮っていたら、思いがけない徹底した残酷さに目を離せなくなる一冊でした。 特に、これでもかと畳みかけるように悲惨になっていく後半戦は、人間なら誰の中にでもある獣性や心の些細な動きが綿密に描かれていて、本を置くことができずに一気に読み切りました。 無人島というゼロの状態から人間社会が形成されていく普遍的な様子が、少年たちの心の機微を掬い上げ

他人の気持ちはわからぬもの 『行人』

夏目漱石というと、学校で習った『こころ』しか読んだことがなかったのですが、少し前に『草枕』を読んで、そのあまりの美しさに仰天しました。 今まで知っていた日本語表現の概念を根底から覆されるような、日本語ってこんなにも美しくなれるのか、という新しい地平線を見たかのような衝撃です。 見たことない表現や読んだことのない漢字の組み合わせがたくさん出てくるのですが、しかし漢字とは便利はもので、読み方がわからなくとも意味を感じ取ることができます。 漢字の持つ絵としての機能のおかげで色彩

物語の効用

パートナーと車に乗っているとき、危ない運転で飛ばしている車に遭遇することがあります。 そういうときは、冗談めかして「今の車、助手席に破水した奥さんが乗っててね、旦那さん急いで運転してたよ。無事に産まれてほしいね」なんて言います。 ただの運転の荒い人かも知れないし、それとも何か大変な事情があってやむなく飛ばしていたのかも知れません。危ない運転はもちろんダメですが、相手の事情はこちらからは見えないので、好きに解釈することができます。 スーパーのレジでめちゃくちゃ感じの悪い人に

”現実”とは一体なんなのか 『モレルの発明』

アルゼンチンの作家ビオイ・カサーレスの『モレルの発明』は、町山智浩さんが『去年マリエンバードで』の映画解説で紹介していて知った小説です。 『去年マリエンバードで』は我が人生でその美しさに最も感銘を受けた作品であり、しかも世界で1番難解な映画のひとつとも謳われています。そんな作品に影響を与えた小説が『モレルの発明』なのだとか。これは読まないわけには行きません。 一読目では、どうしてこの小説が『去年マリエンバードで』に繋がるのかが分かりませんでした。どちらかというと映画『イン

ニッポンのミソジニー

この本を読みながら、そして読み終えた今もずっと、ニッポンのミソジニーについて考えています。あまりにも日常生活の細部にまで浸透し、密接に関わっている問題だから、考えることをやめられないのです。 『女ぎらい / ニッポンのミソジニー』  上野千鶴子著 驚くほど面白く、ためになる本でした。 今までの人生で、日常生活における様々な瞬間、人の振る舞いや会話、社会の風潮や仕組みに対して感じていた、名付け難いモヤモヤに新しく明確な理解と、そして正しい怒りを与えてくれて目が覚める思いが