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『恥辱』転落する人生の痛みと可笑しみ

ジョン・マクスウェル・クッツェーは南アフリカ出身の小説家。2003年にノーベル賞を受賞しました。今回読んだ『恥辱』は1999年に発表された長編作でイギリスのブッカー賞を受賞しています。とても読み応えのある作品でした。


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『恥辱』J・M・クッツェー

舞台はアパルトヘイト撤廃後の南アフリカ。主人公は52歳、離婚歴有り、最近は老いを感じ始めたもののこれまで女性に困ることはなかった大学教授のデヴィッド。週に1度女を買うことで満足していたが、ある日教え子の女学生と関係を持ったことで人生が転落していく。大学を辞任し、娘の住む片田舎を訪ねるが、そこにはさらに厳しい世界が待っていた。


一人称と三人称が入り混じる独特な文章。ダヴィッドの心の声かと思いきや突然客観的に距離を置かれ突き放され、ダヴィッドの視線と三人称の視線がシームレスに入れ替わります。原文ではどのように書かれているのでしょうか。気になります。日本語の文章では主語を省けるので、人称の変化がより顕著に感じられるのかもしれません。

ドッと渦巻くデヴィットの感情が一人称で描写されたかと思うと、次の文は三人称の状況描写。デヴィッドの立場になったり、一歩引いて状況を見たり。

三人称で語られるデヴィッドの様子が非常に簡潔な文章で繰り返され、心地よいリズムを刻みます。例えば「彼は動揺する。」とか「彼は首を振る。」とか。それだけ。絶妙な距離感です。

強姦というテーマが出てくる男性が書いた作品で、しかも男性主人公となると、正直入り込みにくく身構えてしまいます。特に主人公が身勝手な人間だと、私の読み方が甘いせいかもしれませんが、作者の考えを主人公のそれと同一視してしまいがちで、物語自体を嫌気がさす。今作のデヴィッドも、こいつサイテーだなあ!!と感じる瞬間が多々あるのですが、この微妙な距離感、一人称と三人称の使い分けのお陰か、作者と主人公を自然と分けて読むことができ、作品自体を嫌いになることなく読むことができました。

しかし女学生との関係についてはデヴィッド側からしか語られず、読者には女学生側の言い分が一切見えないという構成が巧い。この件に関しては対話もなくデヴィッドだけの目線を追うから、信用できない語り手としての彼のエゴが浮き彫りにされます。

デヴィッドは思い上がった自分勝手な男だなと思うのですが、同時に

”たしかに若い娘には、じいさんの悶絶する光景から目を保護する権利がある”とか

娘と同居する時に”老人ホームにそなえる稽古”だと自分に言い聞かせたり

じいさん流自虐ツッコミが的確かつコミカルで嫌いになれません。

老いと欲についての描写も切実で、その身勝手ささえ人間らしい。今の自分が味わうことのない苦しみですが、ひしひしと想像させられます。52歳ってそんなに老いを嘆く年齢でもない気がするのですが、肉体的老いの、その始まり。気配を感じる怖さ。実際に自分が歳をとってから読み返したら、感じることが変わりそうです。


物語は進み、大学で起こるスキャンダルと娘のいる田舎で起こる事件の対比構造が生まれます。デヴィッドが彷徨う度に彼の立場が変わり、世界の見方が変わる。

デヴィッドと娘はお互いに全然違う人間だからこそ分かり合えないと思っているけれど、本当は二人とも頑固さがそっくり、だから分かり合えない。物事への向き合い方に対しての頑なまでの譲れなさ、自尊心の強さ、自負の念など根本的な人間の部分がすごく似ている。

さらにデヴィッドと娘の間の理解し合えなさが、デヴィッドと女学生の父との分かり合えなさで補強される構造。


話が展開するごとに救いがなくなっていくのですが、しかし同時にアイロニーがあり、可笑しみさえ感じます。

大学を出て、田舎町に来たデヴィッド。デヴィッドはいつも文芸作品からの引用で自分の感じることを理解し、また娘と議論する時さえ講義調子になり、巨匠の作品を引用し抗弁を垂れる根っからのインテリ。だけどかなり俗世間的でもある。

女学生の服装を見て幼稚で悪趣味だなと感じたり、娘の隣人の家に招かれながらこんな奴らとお茶を飲まないといけないのかと辟易したり、田舎の女性に対して美しくあることに励まない女は好まないだとか、娘に大変な事件が起きてる時にすら正直もう家に帰りたいなあと思ったり、どの口が言ってるんだよ!とツッコミたくなるデヴィッドの率直な性格の悪さには自分にも思いたる節があり、憎めない。親近感が湧いてきます。

デヴィッドは身の回りに理解できないことがあると、文芸作品という補助線を引いて自分のわかる世界へと収めようとします。その知識力や賢さは武器にもなるけれど、時に世界と自分を圧倒的に引き離す諸刃の刃にもなる。知識のお陰である一定のところまでは深く理解できるけれど、でも絶対に自分自身の身体的体験にはならないような。頭の中でぐるぐる回り続けるだけ。

娘は同性愛者なのか、しかし女性同士の営みとはどんなものなのか、いや自分はこのことに関しては無知だ、もっとプラトニックな関係なのかも、サッフォー的な同性愛か ー と想像たくましいデヴィッド。そしてその後続くのが、しかし娘の相手が不美人なのは嫌だなあ。

と、こういう下世話な思考を巡らせている時にも詩人が引用されるのがちょっと滑稽で、それでいて人間的魅力と可笑しみを感じます。


初めは理屈っぽくて、たとえば動物保護活動に参加するのは罪悪感からではなく純粋な寛容さからだとか、何事にも理由を表明しなければ満足できなかったデヴィッド。しかし動物保護活動は次第に理屈をすり抜けて、彼自身が見聞きし生きた経験となっていきます。

最後も相変わらず、ヴィクトール・ユゴーでも読もうか、と文芸作品に人生の指南を求めるデヴィッドですが、前触れもなくやって来た人生を突き落とすような出来事を経て、彼の中のなにかが変わります。自己完結していた世界の扉を外へ向けて開けたのかもしれません。どん底の中にも希望が見える最後に感じました。


こうして感想を綴りながら、デヴィッドの引用する物語や詩人たちのことをもっと知っていたら、『恥辱』に仕込まれた二重三重の意味が理解できたのかもしれないと自分の力不足を感じます。物語の構造についてももっと理解したい。こういう本を読むと自分の無学さを痛感するし、同時に学びたいという純粋な欲求が生まれます。もっと学び、また読み返したい一冊です。大変良い読書ができました。



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