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物語に触れる。それは、選ばれなかったものに身を寄せるということ

一週間に一度は、夕方にベランダに出る。ぼうっと夕日を眺める。そして道行く知らない人たちのことを考えたりして、物語を勝手に添えてみたりする。おおきなお兄さんが大事そうに抱えるお弁当箱。新婚さんかしら、おいしかっただろうな。スーツを着たまま犬の散歩をするお姉さん。やっと散歩に連れ出せてあげられたのかな、よかった、おつかれさま。

部屋に戻って、キッチンへ行く。料理をするのが好きだ。食べるのも好きだし、だれかに作ってよろこんでもらうのも好きだけど、味見をしながら好みの味にしていく過程が、わたしは好きなのだ。味は大事。料理以外でも完成形がすべて、かもしれない。結果を出すことが大事だし、それでしか評価されない世界があることもわかっているけれど、だからこそ過程を愛していきたいのだ。だからわたしにとって大事なのは、今まわりにあるものだけじゃなくて、どういう物語をたどってここにあるか。

6年続けた図書委員、カウンターで思っていたことは
「この本を読んで、このひとはなにを思い出したのだろう。だれを思って、どの言葉に胸を躍らせたのだろう」
本を棚に戻しながら、次にこれを手にとるひとは、どんな出来事を経て、借りて行くのだろう。そんなことだった。そしてしばらく誰からも選ばれない本を見つけては、「わたしの言葉になるかしら」と借りて帰った。

この主人公たちはしあわせになったけれど、これを書いたひとは違うのかもしれない。本の中の物語ではせめて、叶えたかったのだろうか。
本を読み終えて考えることは、いつもそんなことだった。選ばれた言葉より、選ばれなかったもののことを考えてしまう。

わたしは、図書館とか本屋が好きだ。本が好き、理由なんてそれだけなのだけれど。ほかに理由があるとするならば、そこには選ばれなかったものたちが集っているから。一度は誰かに選ばれ置いてもらったはずなのに、ふたたび選ばれず、新しいだれかのもとへ行けない物語が身を寄せ合っている空間。

だからひっそりと佇む一冊を手にとって、「わたしのところにくる?」なんて声をかけながらいっしょに家に帰るのだ。売れ行きの本も買うけれど、そうじゃない本を多く買って帰ってしまう。

すこし違うかもしれないけれど、のこりものには福があるって言うじゃない。だから言葉として紙には並ばなかった物語を、選ばれた言葉から探している。ここにない言葉に、わたしをときめかせるなにかがあるかもしれない、と。

心ここにあらず、なのかもしれない。見えないものと、ここにない過程と物語のことばかり考えてしまうのは、よくないかもしれない。でもそうやって生きてきてしまったし、だからこそ、なにかに触れるたびに妄想とも呼べる物語があたまのなかを流れていく。その感覚が、たまらなく愛おしい。

そんなめぐりあわせでわたしを通っていった物語をまた、ベランダからながめる知らない誰かに重ねてみる。
今日もいい日だったかな。明日もいい日にしようね、おつかれさまです。


p.s. カバー写真は、去年の夏。昔着ていた服を着て、タイムスリップできるかなって水をぱしゃっと上にあげてみた。なんてね、わたしは今がいちばん、好きです。選ばなかったわたしのアナザーストーリーは、たぶんどこかのパラレルワールドで元気にやっている。

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。