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新しい朝、新しい日常。コーヒーマシンと救世主

日常というのは、知らない間にできあがっているものだ。フィットするものというのは、わたしにとって足音のしない、突然そこに存在するなにか。

「コーヒー好きだよね」

友人からの連絡に、もちろんと返事をした数日後に届いたのは、コーヒーマシンだった。

そもそもどうしてここまで関係が続いているのか、なんてことすらよく覚えていない。分かち合った思い出がたくさんあるわけでも、共通の何かがあるわけでもなかった。

そういえばごはんを食べにいったり、わりとしっかりとしたメールのやりとりをしたり。

記憶力の悪いわたしだけれど、彼と食べた京野菜が本当に美味しかったことは今でも鮮明に覚えている。新鮮な野菜が今にもシャキシャキと音を立ててせまってくる勢いだ。

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生きる世界が違う、なんて思っていた。わたしにとって、間違いなくキラキラした存在だった。ただ確かなのは、嫉妬なんて覚える暇もなく、まっすぐに、彼のことを尊敬しているということ。

羨ましいという気持ちの裏には嫉妬が存在していて、その境目はあまりにも曖昧だ。だから、羨ましいという気持ちは不安定である。それでも、彼への憧れが嫉妬に向かったことはない。まっすぐ、ずっとまっすぐなままだ。

「出来事」というのは、いくつになっても起こるもの。もちろん大きさはそれぞれだけど、生きていく上で必ず起こる。でも人間というのは「慣れ」という、よくいえば「学び」と呼ばれるそれらによって、毎日を代わり映えのないものとして捉えたりする。

いつまでも新鮮な気持ちでいられたらそれでいいのだけど、それは難しい。

彼を見ているといつも以上に、わたしはそう思うのだ。現状維持は停滞、だろうか。そうかもしれない、でも、捉え方で大きく変わることだってきっとあるのだ。

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今なにしてるの?という久しぶりのやりとりに対し、「どこにいてもあなたらしいんでしょう」なんて彼は言う。

最近、朝が忙しない。平日は、朝から豆を挽いてコーヒーを淹れることができなくなっていた。そんな最近を見透かされていたかのように現れた、時代を彩るおいしいコーヒー。
新しい朝の習慣なんていうものを、彼は運んで来てしまうのだから。

誕生日おめでとう。きみもきっと、いつまでもきみらしいんでしょう。

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。