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おじさんに「今日、デート?」と聞かれても、全然平気です。


以前、下の記事で紐解いてみたところ、ナナシノユキサンは、たぶんアセクシャルというやつだ。

元々は、男の子にうまれたかったけど、女がなる男にはなりたくなかった子で、徐々に「女の子」にはなれたものの、その先も「女性」にはなれないまま止まっていて、感じる違和感とか嫌悪感だとかを当てはめると、アセクシャルというやつだろう、と行きついた人間なのだけれど(note以外では改めて認めたこともない)

性的なことが苦手っていうのと、もうひとつ大きいのが性を持つ「女性」として見られることが、どうしても嫌っていうのがある。

ただ、それは、なぜかは分からないけれど誰も知らないうちに、自分のなかにメキメキ現れた感情というだけであって、どちらかと言えば、得手不得手、好き嫌いに並ぶぐらいのこと、という感覚が強い。誰に植え付けられたわけでもなく、意識的に選択したわけでもない。

例えば、ナナシノユキサンのイヤの中に、性的なモノを目にするのがイヤというのがあって、Queer Eyeも大好きだし、ゲイの友達だっているし、そういう人たちに嫌悪感は全くないのだけど、LGBTQのパレードとかはなるべく遭遇したくなくて、それはなんでかというと、体をさらけ出してみたり、"性的"と言えるだろう表現をしている人が多いからだ。(特に外国だからかもしれないが)

でも、さっき書いたように、ナナシノユキサンにとって、これは私の好き嫌いのうちのひとつで、鳥の目がどうしてもダメという人がいるのと同じことで、だからと言って、例えば東京都に、鳥を絶滅させてくださいと嘆願することにはつながらないように、パレードのそういった表現は不快に感じる人がいます。そういう表現は禁止させてください、とはならないわけである。もちろん、そういう表現をする人が悪いとも思わず、単純に、ナナシノユキサンの好き嫌いと、その人のそれがハマらなかっただけ、と思っている。

個人のコミュニケーションでも同じである。上の記事で書いたように、大学生の頃に、キッチンで、母の手伝いをしているナナシノユキサンの姿を見て、父が「ユキがキッチンにいる姿いいね」と言ったことに、なんとも言えない嫌悪感を覚えたが、それは、"女性"であることに違和感がある自分が、"女性"であると(いう極当りまえのことを)言われたような気がしたためであって、その父の言葉自体には、一点の悪も見いだせないのである。

小さい子が、虫の苦手なお姉さんに、そうとは知らずに「ねぇねぇ手、出して」と言って、無邪気にダンゴムシを乗せてしまうようなものだ。ギャー――――!となって、すぐに石鹸で手を洗わないと気持ち悪い人がいても、小さい子はそういうものだ、と理解して終わるだろう。

自分の得手不得手や好き嫌いや、違和感や嫌悪感に、社会が合わせてくれる必要はない。ナナシノユキサンはずっとそういう感覚がある。

だから、「女性」であることを受け入れられていないナナシノユキサンではあるけど、例えば、オシャレした日に「今日デート?」と聞かれるとか、「お子さんは?」と聞かれるとか、そういうことに、全く怒りを感じない。気まずい空気を打破してくれようという、その心遣いに感謝だし、たぶん、本当にナナシノユキサンがこれからデートなのか、子供のこと、本当のところはどう考えているのか、なんて別に興味があるわけではない。

みんな一般的な話をしている。気まずくなったら天気の話をするぐらいの感覚で、険悪な雰囲気にするより、少しでも(一般的に)明るい話題を振った方がいいよな、ぐらいの感じで。

もちろん、今は色々な人がいるからな、と発言に気を付けて、どこにあるか分からない地雷を踏まない人がスマートなのだろうけれど、何十年も、人に気を遣ってやってきた行動を、今度は急に、目の敵にされるおじさんの立場にもなってみてほしい。大変である。(ナナシノユキサンが"おじさん"と言い続けるところにも、ものすごい偏見を感じるし)

みんな、仕事場では、必要最低限のコミュニケーションしか取りたくない、とクールに振る舞う割に、自分の中の細かいデコボコをわかってほしいと願っているのかなぁ。

自分がちょっとおかしいのかしら。

以上、ナナシノユキサンでした。

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