ウィトゲンシュタインが考える「世界」は広げられるか【PhilosophiArt】
こんにちは。成瀬 凌圓です。
今月は、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読みながら、哲学とアートのつながりを探しています(全8回)。
第4回は、「論理」について考えていきます。
前回まで(第1回〜第3回)の記事はこちらから読むことができます。
語彙力がある人の「世界」は広いかもしれない
前回は、思考を知覚できるようにする手段である「命題」の意味を深掘りし、その説明によく登場する「ナンセンス」という言葉についても考えました。
命題によって表現できる、ということは、論理的な説明ができることを表しています。
『論考』の序文には、このようなことが書かれています。
命題で何が表現できるのか。ウィトゲンシュタインはその限界を『論考』で示そうとしました。
世界の限界について、ウィトゲンシュタインは次のように述べています。
『論考』の最後には、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な言葉があります。
語りえぬものは、言語の外側に存在しています。
「言語の限界=世界の限界=論理の限界」としていることから、論理的に言語化できるかどうかが世界の限界であると考えました。
ということは、多くの言葉を知っていて、言語化できるものが多い人ほど、世界が広がっているのではないでしょうか。少し関係ないかもしれませんが、『論考』を読んだことが、語学学習も頑張ろうというきっかけになりました。日本語以外での言語でしか表現できない世界が広がるかも…!と思ってしまいました。
アートには、自分が見ている世界が投影されているような気がしています。
世界の限界を知る。世界の限界を広げる。
どうやったらそのようなことができるのか。そもそも可能なのか。
もう少し考えてみたいと思います。
アートで世界は広がるのか
ウィトゲンシュタインは5.62節の最後でこのようなことを言っています。
「この言語の限界が、私の世界の限界」と言っているということは、言語ごとに見えている世界は違うのでしょうか。
日本語で捉える世界と、英語で捉えている世界は全く別のものなのかもしれません。
そのように考えると、アートによって表現することは、自分のアートの限界を見つける作業とも言える気がします。そのため、自分の世界を他人が知ることはありません。私が他人の世界を知ることも、できません。
このように、「世界に存在するのは自分だけ」と考えることを独我論と言います。哲学者が『論考』を読むと、ウィトゲンシュタインは独我論者ではないか?という議論がよく起こります。
ですが、内容を突き詰めていくと(細かい部分は省略します)、これまで『論考』でみてきた、「対象」について話す言葉に「シンボル」を見出して実在するものを考えているとわかります。
論理的なものによって世界が作られ、非論理的なものはウィトゲンシュタインの「世界」には存在しない(存在できない)ことがわかりました。
この辺りからウィトゲンシュタインは、論理学について考え、数学の命題についても述べています。
次回(第5回)は数学や論理について軽くまとめた後、ウィトゲンシュタインが述べていた「倫理」とアートのつながりを探っていきたいと思います。
第5回の記事はこちらから↓
参考文献
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」〔電子書籍版〕(野矢茂樹 訳、岩波文庫、2017年)
大谷弘 「入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』」(筑摩書房、2022年)
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