ウィトゲンシュタインの“思考”から、「職業:自分」のアイデアが見つからない。【PhilosophiArt】
こんにちは。成瀬 凌圓です。
今月は、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読みながら、哲学とアートのつながりを探しています(全8回)。
第2回は、「像」と「思考」という言葉を読み解いていきます。
前回(第1回)の記事はこちらから読むことができます。
「像」は現実に対するモデル
前回読んだ部分(1〜2.063節)では、
世界とは、私たちが考えられるものを組み合わせて並べたことがらの総体であるということについて、「事実」「事態」「対象」といった言葉を使って書かれていました。
「世界とは何か」を語り終えると、2.1節からは「像」という言葉を使って、「事態」や「事実」を深掘りしていきます。
「私たちは、現実へのモデルとして像を作ることで事実を描いているのだ」
というのが、ウィトゲンシュタインがここで言いたい主張です。
現実へのモデル、というのは、実物以外のイメージを指します。
日本地図は、1つの像と言えるでしょう。
日本地図には、47都道府県のおおよその位置関係が示されています。
私たちは、北海道や東京都などの実物をわざわざ目の前に用意して思い出話をしたり、旅行の計画を立てたりするわけではありません。
像があるおかげで、実物がなくても考えられるのです。
このことをウィトゲンシュタインはこう言っています。
さらにウィトゲンシュタインは、3節の冒頭で、
と言っています。
「思考=事態の像を作ること」と定義して、さらに考えていくのです。
思考は命題としてアウトプットされる
私たちがどれだけ像を作っても、実物以外のものである以上、なんらか別の形になっている必要があります。
思考を表現するにはどうすればいいか。
ウィトゲンシュタインは、「命題記号を使う」と言っています。
命題には名(な)が用いられ、ウィトゲンシュタインの「世界」で、「対象」の代わりとして機能すると言っています(『論考』3.203, 3.22)。
ここからは、『論考』3番台の中で、僕が気になった部分を抜粋しながら、アートのあり方を考えていきたいと思います。
受け手の感想は無視されるのか?
『論考』の3番台にはこのような言葉があります。
「私たちが知覚できるものは、何かを明確に表していて、そのことは完全に分析されている」というのが、ウィトゲンシュタインの主張でした。
絵画や音楽、小説など、自分の思考を知覚できるようにする方法が多く存在しています。
なにか対象の代わり(=像)としての表現である以上、“正解”が存在するということでしょうか。僕は、アートをそう捉えてしまうと、作品に触れたときの自分の印象や、その後の自分自身への影響は放っておいて、ただただ作品が持つメッセージを考えなさいと言われているように感じてしまいます。
私たちが創り出すアイデアは、どこから生まれるのか。
生み出したものの“正解”は見つけても、そのヒントの分析が完全な分析と同じかどうかはわかりません。
考えて、考えて、生まれたアイデアもあれば、直感で思いついたアイデアもあると思います。
知覚したものを自分なりに解釈する行為は、『論考』の中では難しい気がしています。
もしかしたら、僕の中で「命題」という言葉が理解できていないことが原因なのかもしれません。
次回(第3回)は、3番台後半から4番台を読んで、「命題」という言葉を掘り下げていきます。
命題によって何が表現できるのかについても考えていきたいと思います。
第3回の記事はこちらから↓
参考文献
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」〔電子書籍版〕(野矢茂樹 訳、岩波文庫、2017年)
大谷弘 「入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』」(筑摩書房、2022年)
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