見出し画像

コークハイで顔真っ赤にして

2024年3月後半の日記です。
最近仕事が忙しくて、noteにアップするのが遅くなりました。

写真はその日とあんまり関係ありません。

3月17日 日

久しぶりに青山ブックセンターへ。来るたびに心が躍る本屋。

本棚を眺めると、
自分が死ぬまでに読むことのない本がこんなにもたくさんあるんだ。
自分死ぬまでに触れることのない世界がこんなにもたくさんあるんだ。
と思う。なんだか不思議な気持ちになる。

発酵の世界とかパンクの歴史とか量子物理学とか、
そういう世界に触れないままわたしは死んでいくのだろう。

3冊本を買って、夕方に帰宅。

今日は最高気温が20度くらいで、昼前に部屋干しした洗濯物は乾燥機を使わなくてもちゃんと乾いていた。

シャワーを浴びた後も、パンツ一丁で寛げる温かさが心地良い。

わたしは冬派なので、毎年10月くらいに長袖のTシャツを引っ張り出すときに何とも言えない高揚感があるのだけど、春の訪れには逆の感覚を覚える。こっちは気分が落ち着く感じ。でも夏は嫌い。

帰って『川本喜八郎 作品集』を観る。「詩人の生涯」が凄まじかった。

糸車でキーキーと糸を紡ぐ年老いた母親。
「やれやれ、私は〈綿〉のように疲れてしまった。」

すると、糸車に伸ばした手が回転に巻き込まれる。母の身体は指先から順に引きのばされて、糸車の中へと紡がれてしまう。
母は完全に糸となった。

このシーンで安部公房の世界へと一気に惹き込まれる。

「雪が不意に止んだ。それは寒さの限界であったのかもしれない」
こんな言い回しも詩的で、貧しい冬の絶望の中でもきらりと光る。

男が赤いジャケツを羽織り

突然
彼は自分が詩人であることに気づいた

この瞬間以降の力強さ。

空を見上げる男の晴れ晴れとした顔つき。
真っ赤なジャケツ。
繰り返される叫び。
「ジャケツ」「ジャケツ!」
「ジャケツ!」「ジャケツ!」「ジャケツ!」

希望が爆発する、素晴らしい生命讃歌だった。

3月18日 月

知り合いのお子さんに、赤ちゃん言葉を使うことが苦手だ。

普通に「◯◯でちゅねー」とか口にするのは恥ずかしいから、というのが理由の半分。わたしの低い声でそんなセリフ・・・気持ち悪すぎる。

もう半分は、たとえ小さな子どもでも、一人の人間として尊重するべきではないかという気持ちがあるからだ。
こちらの年齢が20〜30近く上であっても、それだけで立場が上になるわけでもないのだから、タメ口で話すことすらおかしい。ましてや赤ちゃん言葉で子ども扱いをするなんて。相手へのリスペクトを欠いている。対等な関係の我々は、お互い敬語で話すべきなのである。

子どもと敬語で話す方がむしろ滑稽だとは自覚してはいる。
でもわたしはもう敬語で話す。

少し話は変わるが、犬のことを「ワンちゃん」と言うこともできない。
普通に恥ずかしい。わたしの低い声で、鳴き声にちゃんを付けるなんて。
(普段イッヌとか言ってるのはどうなんだという話になるわけだが・・・)

困るのは上司が飼ってる犬の写真を見せられたりするときだ。

「その犬可愛いですね」と言うのは少し失礼な気がする。
犬呼びは、なんだか呼び捨てっぽい。
上司の大事な家族を呼び捨てにはできない。

でもワンちゃんは封じてるので、もう軽く詰んでいる。

「その犬さん可愛いですね」とか言うしかない。
犬さん・・・

怒りと、自分の器の小ささに対する落胆とが交互に頭に浮かんでくる。
究極の原因は、わたしに友だちが少ないことにある。
つまり暇なのだ。
暇だからしょうもないことを考えてしまうのだ。
ピアノを習いたいな。それかジムに入るか。

3月19日 火

仕事帰りに新宿でカツカレーを食べる。

その後電車で寝てしまい、目が覚めたら最寄りの一つ先の駅だった。ただ時間の無駄にはしたくなかったので、その駅構内のクリスピー・クリーム・ドーナツを買って帰る。

チョコに頭が悪そうなカラフルなトッピング(*1)がされてるやつが好き。
クリスピー・クリーム・ドーナツよりミスドの方が好きって人が結構いるけど、その人たちはかっこつけてるだけだと思っている。
だって、バカみたいに甘いクリスピーの方が絶対おいしいじゃないか!

*1=レインボースプリンクルっていうらしい

自分が傷ついたことだったり、相手に直してほしいところだったりをLINEで伝えるとき、これまで触れてきた文章とか人生経験とかを総動員してメッセージを作る。相手を傷つけないように、二人の関係を壊さないように伝えるためには、どんな言い方をするべきか。何度も何度も文章を打っては消してを繰り返す。

そして、文末に絵文字をつける。あくまで怒っているだけではないという意思行事のために、絵文字に頼る。
絵文字はとても便利だ。今日も絵文字に救われた。

3月20日 水

祝日!
やることもなかったので、シネマ・ロサへ『14歳の栞』を観に行く。

3年前に観たときは、安易に”エモ”に振りすぎな編集に不快さを感じたけれど、でもこの作品に映る少年少女たちの姿を観ていると、普段思い出せるはずもないような学生時代の記憶がたくさん蘇ってくるのだから、やはり良い作品なのだろう。
あの頃の後悔とか、身悶えしてしまうような行動とか、ざらざらした気持ちとか。

あと、卒業式の練習にあれほど時間を費やせるってなんて贅沢だったんだろう、みたいなことを考えていた。

一人の生徒が「友だちになりたいと思った人が、先に取られちゃう。他の人が先に友だちになっちゃう」みたいなことを言っていた。これは本当によくわかる。

自分にとっては唯一無二の存在なのに、その人にとって自分は数多くいる友だちの一人にすぎなかったりもする。

こんなことも大学生くらいになるとどうでも良くなったけど、中高生の頃は簡単に絶望していた。

あと気になったのは、カメラの後ろ側にいる制作者たちはどんな思いで、少年少女たちを撮影したのだろうということだ。

ちっぽけなことで悩んでいる14歳が目の前にいたら、大人の立場から、彼ら彼女らの視野を広げられるような助言をしたくなったり、素敵な言葉を贈りたくなったりもするだろう。

だが同時に、制作者として、少年少女たちの人生に影響を与えるべきではないというふうにも考えるだろう。

数カ月にわたって自分の日常にカメラを向けられるなんて経験、映画に出るなんて経験は、思春期の学生にとっては人生を変え得るもののはずだ。

そのあたりのことはいつかこの映画を作った人に聞いてみたいな。

ソウル開催のメジャーリーグ開幕戦を観る。
ダルビッシュと大谷の対決はかっこいい。

気になったのはドジャースのジェームズ・アウトマンという選手。
さすがに名前の縁起が悪すぎはしないだろうか、という一点のみで彼に釘付けだ。

いかにもアウトになりそうな名前。ラストネームということで苗字だとしても、両親はジェームズ少年が野球を始めたときに思ったはずだ。こんな苗字の家系で申し訳ないと。

しかしジェームズ少年には、天から授けられた野球の才能と、努力を続ける強さがあった。毎日毎日血が滲むようなトレーニングを積み重ね、ライバルとの競争に打ち勝ち、見事メジャーリーガーの席を勝ち取ってみせた。

ドラフトで指名された日、ジェームズ少年は両親にこう言っただろう。
「アウトマン家に生まれてきて良かった」

※全て妄想です

3月21日 木

朝9時頃に震度5弱の地震。
かなり揺れたしスマホの警報も鳴って、一瞬目が覚めたけど、すぐに二度寝をした。この無防備さというか慣れというかが恐ろしい。

前職の先輩からご飯に誘われた。
辞めた後に2回誘われて2回とも断ってたのに、まだ誘い続けてくれるのは単純にうれしい。
来月ご飯に行くことになった。

ホラー映画のチラシが一枚、部屋の机の上にある。
昨日映画館で受け取ってしまった。
おそらくその映画のスタッフが、入口で「今度上映するので見てください」と配っていたので、受け取ってしまった。

しかし、一人暮らしの部屋に霊的なものが印刷された紙があるというのは、なんか落ち着かない。
黒くて異様なオーラを放っている(ような気がする)。
不気味。
捨てたら捨てたで、ゴミ箱から怨念を送られそうだし。処理に困る。
次のゴミの日まで、霊的なもの(が印刷されたチラシ)と一緒に過ごすしかない。

『不完全な司書』を読み終えた。

本は「窓」のようだ。
そう繰り返し語るのが、奈良県東吉野村にひっそりとたたずむ私設図書館「ルチャ・リブロ」の司書・青木海青子さん。
本と、本を媒介とした人のつながりの力を強く信じている方なんだと感じた。

最も印象に残った部分を引用する。

ここを行き交う方々は、単なる利用者というより公を共に作ってくれる人という感じです。ある人は当館の看板や本棚を作ってきて、ルチャ・リブロの空間づくりを手伝ってくれています。またある人は借りた本の感想を様々な視点から話してくれ、わたしたちの蔵書への理解を深めてくれました。「このシリーズ1巻しか置いてなかったから、自分で買って読んだ。面白かったから寄贈する」と言って続巻を持ってきてくれた方もいました。公と私が寄せては返すような場所で、エンドユーザーとしてではなく、手の届くところにある公を共に作っていく。そんな経験が積み重なることによって公に対する無力感が砕かれ、社会を一緒に形作る一歩になればなんてことを、山のふもとの図書館で思い描いています。

『不完全な司書』

3月22日 金

洋楽のYouTubeのコメント欄にも「2023年にも聞いてる人いる?」的なコメントがあって安心する。欧米にもダサくておもしろくない奴がいるんだと。

ままごと 瀬戸内国際芸術祭2022 ドキュメンタリー『7日間のままごと』を観る。

あゆみ(短編)」に惹き込まれた。

本作は、舞台の幅を越えて、登場人物たちが移動し続ける物語として書かれました。 特に注意書きがない場合をのぞき、登場人物たちは矢印の方向へ移動し続けるイメージでト書きが書かれています。 役者同士は移動を引き継ぐことで、役柄も引き継ぎ、劇を進行させます。 例えば、登場人物Aが移動し続け、舞台から見えなくなると同時に、別の役者が登場人物Aを演じながら入場します。 本作は三名の役者で、二役を演じ、上演することを想定しています。

観劇経験がほとんどないので、この手法が新しいのか定番なのかもよくわからないけど、すごい構造だと思った。

あゆみと未紀という2人のキャラクターが、役者3人の間で入れ替わっていき、理解が追いつかなくなってくる。
役者は、あゆみと未紀という人物の器でしかない。同時に、あゆみと未紀という人物の本質は、どんな器の中にあっても変わらない。

永遠と真っ直ぐに伸びる道。
交差しないはずの2本の道が交わるとき。
後悔と幸福が去来する。

3月23日 土

映画『阿修羅のごとく』を観た。

夫の愛人のアパートを見上げているところを娘に見られ、真実を知られたときの母(八千草薫)の、切ないとも悲しいとも驚きとも照れとも諦めとも言えるような一瞬の表情が素晴らしかった。

そのまま母は帰らぬ人になる。彼女の墓に向かって、次女の夫(小林薫)が手を合わせて声を掛ける。
「女はぁ、阿修羅だよなー」
浮気をしていた義理の息子の彼が手を合わせるシーンが、どうしてか最も印象に残る。血のつながりがないからこその潔さ。こりゃ参ったという感じだろうか。それでいて、呟いた後にぎゅっと目を瞑る哀愁が渋い。

波風を立てず過ごすのが本当の女の幸福なのか、そんなことを考えさせられる今日此の頃である。

夜は『うみべのストーブ 大白小蟹短編集』を読む。
ストーブが放つほのかな赤い熱が優しかった。

えっちゃんは週にいちど 私につもったホコリを拭きとってくれる

一日が一瞬で終わってしまった。

3月24日 日

ル・シネマ渋谷宮下で『海がきこえる』を観る。
コークハイで顔を真っ赤にする里伽子がかわいかった。
吉祥寺駅のシーンが本当に美しい。この時代の吉祥寺駅なんて知らないのに、なぜか懐かさを感じる。

こんな色彩の夏だったら、わたしはもっと夏を好きになれるのになあ。

最近の夏は猛暑と言うべきか酷暑と言うべきか、とにかく暑すぎて、映画や漫画の中の夏とは全くの別物ではないだろうか。

どこにあるんだろう。あんなふうな淡い水色の夏は。

今年は、あんなふうな夏を探しに行きたい。

3月25日 月

『海がきこえる』で観た夏について一晩考えていたら、昨年8月ごろにカネコアヤノの日比谷野外大音楽堂でのライブに行った日は、かなり”あんなふうな夏”に近かった気がする。

あと、前に美術館で観た『路傍初夏』(岸田劉生)という絵の中にも”あんなふうな夏”を感じた。

わたしは歩くのが速くて、普段道を歩いていても誰かから追い抜かれることは滅多にない。のだが、自転車では追い抜かれまくる。
というのも、わたしの自転車は折りたたみ式でタイヤが小さく、全力で漕いでもスピードは出ないからなのだが、小学生の女の子に追い抜かれるときは、結構プライドが傷つく。

『スキップとローファー』10巻を読む。今回も最高だった。
ちなみに買ったのは能登半島地震応援版で、売上が義援金として寄付される。

このあとがきを読んだときは頭が真っ白になった。

ただただ、強くこの作品と高松先生を応援したい。

3月26日 火

電車に乗ったら向かいの席に、ともに肩まで伸びたロン毛に色違いのハットを被った男性二人が隣り合って座っていた。おそらく30代前半くらい。鼻の下にヒゲを生やしてて、雰囲気も同じ(高円寺にいそうな)。
まるで双子のような、というかきっと双子であろう。

しかし、しばらく経っても二人は一言も会話を交わさない。どちらも真顔でスマホをいじっている。
もしかして・・・この二人は全くの他人だったりするのか?

いや、だったらこんなに雰囲気が似てるはずがない。髪型もハットもお揃いなのだ。
双子でなくても、さすがに知り合いではあるよな・・・? てか、あってくれ。

そう思ったけど、冷静に考えると、良い歳して二人で髪型もハットもお揃いにして出かけてる方が変か・・・。カップルだったら別だけど。

知り合いじゃないなら、目の前に広がっている光景はほぼ奇跡である。双子と言われてもおかしくない二人が、偶然同じ時間に同じ電車の同じ車両に乗って、偶然隣同士になっているのだから。
本人たちに似てる自覚がなくても、ハットまで色違いなのだ。
高円寺的人間なのだから、「ハット、一緒ですね」みたいな感じで会話を始めて、連絡先交換くらいできるんじゃないか。
どうしてこんなに冷静でいられるのだ。
それとも二人とも気まずいのだろうか。

もういろいろ妄想してわけがわからなくてきたところ、片方が立ち上がって赤羽駅で降りた。
もう片方には一言も声をかけず。

知り合いじゃなかったのか!
だったらわたしは、奇跡を目撃したってことだ!

Googleカレンダー上で、会社の偉い人から少人数の飲み会の予定に招待された。
さすがに断れない・・・。深呼吸して「参加」をクリックする。あまり話したこともないから、気が重い。

Twitterやめたいなあ。悪意が充満している。
でもいろんな情報収集が出来なくなるのは痛い。
良質なツイートだけをおすすめしてくれる天使みたいな人いないかなあ。

3月27日 水

最寄りの駅から少し離れた場所にある、小さめの商業施設兼マンションの1階の駐輪場に久しぶりに行ったら、ラックが設置されて有料化していた。

2ヶ月前くらいまでは無料で停められたのに。

おそらく施設の店舗利用者以外の人が長時間停める、穴場駐輪場と化していたからだろう。実際、ネット上でも「◯◯駅周辺 何時間でも無料で停められる駐輪場!」みたいな紹介がされていた。

ルールを無視する人間が悪い。
そんな人たちがいると施設側は規制せざるを得ない。

だけど、やはり寂しい。
世界から、また寛容さがなくなった。

3月28日 木

久しぶりにMTGがほとんどなくて、作業時間をがっつり確保できる日だった。うれしい。

ドキュメント72時間『大阪 昭和から続くアパートで』を観る。

住民が飲み終えた大量のお酒の空き缶を集めて売り、そのお金で焼きそばパーティーをする。なんて素敵なんだろう。
「焼きそばやのにそばが入ってないわ」とか言いながら、みんな笑顔だ。

一人の住人は語る。
「ええこと 人生の3分の1やな。で3分の2は悪いことや」
みんないろいろな道のりを経て、ここで暮らしている。

ときに自分ではどうしようもない出来事が起きる。それでも、これも自分の人生なのだと、受け入れて生きてきた。
ここに住む人たちの顔に刻まれたシワには、人間の優しさがあり、悲しさがあり、強さがあり、可笑しさがあった。

3月29日 金

今日は朝からオフィスに出社しないといけないのだが、午前中だけ強い雨が降って、昼からは晴れて最高気温が20度くらいになるという、悩ましい天気の日。

家を出るとき、長靴を履くか迷ったけど、午後晴れても長靴履くのは格好悪いだろうと思い、普通のスニーカーを履いて出発した。

そして覚悟はしていたが、家から駅まで歩くあいだに、もう靴下までぐちょぐちょになってしまった。

こういう日に丁度よい靴が欲しい。仰々しい長靴じゃなくて、見た目と機能性が両立しているような・・・。ゴアテックスのスニーカーとかがいいのだろうか。
でも、ゴアテックスってどれくらい効果持続するのだろう? 値段はそこそこするから半永久的には続いてほしいけど、そんなはずもないか。

プロ野球が開幕するので、17時くらいに退勤して急いで帰宅。
これから毎晩野球が観れるのは幸せだ。

3月30日 土

昼過ぎに電車に乗る。
乗客は多くなくて、座席の3分の2くらいは空いていた。

次の駅で20代前半くらいの男性が乗ってきて、
わたしから2席空けて横並びに座った。

しばらく走ると、男性の席に強めに日が差してきた。
すると、眩しいからだろう。彼は立ち上がって席を移動した。

移動した先は優先席。
あまりにも自然に優先席に座った。

特に混んでもいないから、優先席に座っても問題ないのだけど。他の席も空いてるのに、わざわざ優先席に座る必要もない気もする。
都心に出る方向の電車なので、数駅進むと混雑することはわかってるし。

お年寄りや妊婦などが乗ってきたらそのときに席を譲ればいいのだから、優先席に座ることを非難される筋合いはない。そんな意見もあるけれど、彼のようになんの躊躇もなく優先席に座るような人は、おそらくいざという時も席を譲らないだろう。

(外見ではわからない、座らざるを得ない事情がある人もいるだろうけど)

わたしも電車ではできれば座りたいけれど、優先席には座ったことがない。

きっと一度優先席に座ってしまえば、
それ以降は頭の中に自然と「優先席に座る」という選択肢が浮かぶようになるだろうと思う。

それが嫌だ。

嫌だというか、意志が弱くて、都合の良い言い訳だけは得意な自分が怖い。

固く閉ざしていた扉を一度開いたら、もうその扉を閉ざすことはできない。

だから「優先席に座る」という扉は、まだ開けないようにしている。

こういうふうに、あえて開けないようにしている扉は、わたしのなかに他にもたくさんある気がする。

3月31日 日

めちゃくちゃ暑い。

有明コロシアムにVリーグファイナルを観に行く。初めて生でバレーを観たけれど、迫力がすごかった。
特に第2セット・デュースからの、パナソニックの西田とサントリーのムセルスキーの二人の打ち合い。こういう土壇場でボールを託され、決めきるのがエースなんだなあと、素人ながら感動した。

あと思ったのが、両チームともかなりサーブミスでの失点(得点とも言える)が多いんだなということ。25点のうち10点くらいはサーブミスの得点じゃないかと感じるくらい。攻めサーブの重要性はハイキュー! でも知っていたが、さすがにこのミスの数は・・・なんか・・・勿体なくないか? コントロール重視のサーブに切り替えたら、その失点を減らせるんじゃ・・・。

という疑問を、同行者の元バレー部の友人にぶつけてみると、やはり「弱いサーブをちゃんと返されると、ほぼそのリターンで決められる」とのこと。
うーん、やっぱりそういうものなんだろうか。特にトップレベルの選手となれば、余裕のある攻撃ができたらほぼ得点できてしまうのかもしれない。

強いサーブでハイリスク・ハイリターンを狙うのか、確実に入れるサーブでまずはミスからの失点だけは減らすのか・・・。
どこにリスクをかけて何を信じるのか、そういう選択がされる場なのだと感じた。

あと全然試合と関係ないけれど、何やら忙しそうな運営スタッフの女性が、観客席の階段を全速力で登っていた。しかし、一段の段差が低いのに加えて、スタッフとして観客の目も気にしてだろう、一段飛ばしはせずに、一段ずつ駆けていたため、歩きと同じスピードでしか登れていない。
一生懸命な腕の振りとスピードが釣り合ってなくて笑ってしまった。

Twitterでたまに流れてくる、うんちする犬や猫の写真が大好き。かわいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?