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この椅子意外と座りやすかった

2024年3月前半の日記です。

3月1日 金

今日は有給を取った。
昼過ぎに角川武蔵野ミュージアムへ行く。

外観はとてもかっこいい。もう少ししたら公園の桜も綺麗なんだろう。

しばらく周囲を散歩した後、満を持して入ったミュージアムの中は、インスタ映えしか考えてないような薄っぺらい空間で残念だった。少なくとも1400円の入場料には見合わない。

夕方は池袋に移動。ファーストデーなのでグランドシネマサンシャインのIMAXレーザーで「ハイキュー」を観る。

両チームの関係性を描くための回想シーンが多すぎて、もっと試合を見せてくれ! と思った。バレーのシーンはすごくワクワクするのだから。ただ、センターオープンのシーンと、黒尾・月島の師弟関係が伝わるシーンは最高だった。

21時ごろ映画が終わって、なんとなく板橋まで1駅分歩いた。

3月2日 土

頑張らない人より、頑張ってる人のほうが好きだ。
自分と関わる相手にはそうであることを期待する。
では、わたし自身は果たして頑張ってる人でいられてるだろうか。

ちょっと不満に思ったことがあって、それを嫌味な言い方で彼女にぶつけてしまった。後から振り返って、わざわざあんな言い方する必要なかったと後悔する。情けない。

夜は焼き肉。2ヶ月連続で焼き肉を食べている。これからは月に一回焼き肉にしよう!

3月3日 日

ギヨーム・ブラックの『宝島』を観る。
子ども用の腕に巻くタイプの浮き輪が懐かしい。

ピエール・エテックスの『大恋愛』を観る。
ベッドが車のように道を走るシーンが可愛らしかった。
あと、円卓に座ってる3人の大人がくるみ割り?を反時計回りに回してるシーンも微笑ましかった。

3月4日 月

起きたら喉に違和感。この時期は花粉か風邪かわからないことがあって困る。先週の金曜日に有給使ったばかりのこのタイミングで風邪はひきたくない。

めちゃくちゃ好きでたまに思い出すのが、アニメ『映像研には手を出すな!』に一瞬登場するバリアフリー研究部。
この近未来感が堪らない。

3月5日 火

喉に違和感。
花粉か、風邪か。
起きて時間が経つにつれて、風邪の可能性が徐々に高くなっていく。

そして昼過ぎに確信に変わる。風邪をひいてしまった。

ぐったりしながら仕事をする。18時頃に退勤。

夜の時間は、体調の悪さを言い訳にしてダラダラYouTubeを観てしまった。

3月6日 水

薄っすら体調悪いまま、朝から夕方までずっと打ち合わせをこなした。

最近Youtubeで、コロナ禍のJリーグの試合映像を見返している。定期的に見たくなる。無観客のスタジアムで、普段はマイクが拾わないピッチ上の選手と審判のやりとりがはっきりと聞こえて面白い。

彼らのプロフェッショナルな姿勢とか、
互いの仕事に対する敬意が感じられるやり取りとか、
緊迫したピッチ上でこんなこと話すんだ! みたいに微笑ましいシーンとか。

スタンドにいる何千何万の観客、さらに中継では日本中の人の目に晒されてるにも関わらず、中にいる人たちが交わすコミュニケーションが全くの秘密になっているっていうのは、ピッチという空間の特異さだなと思う。
よく考えたら不思議だ。

3月7日 木

喉が痛い。

銀杏BOYZ『駆け抜けて性春』の中盤にあるYUKIのパート。ライブのときは観客みんなで歌ってるのが非常に良い。

オリジナルのYUKIの歌声は、まぼろしの女神みたいな感じだけど、
ライブのみんなの歌声は、まぼろしを掴もうとする思春期の男たちの屈折した真っ直ぐさみたいな感じ。

わたしはまぼろしなの
あなたの夢の中にいるの
触れれば消えてしまうの
それでもわたしを抱きしめてほしいの
つよく つよく つよく つよく つよく

銀杏BOYZ 駆け抜けて性春

3月8日 金

1皿200〜400円くらいのちょっと良い回転寿司に行く。頭が付いた赤海老を注文。

身を食べてから頭のミソも吸う。いまの自分はさぞ滑稽だろうなと思いながら、吸う。
無言で吸う。
初デートとかでは絶対に吸えないな・・・

生簀の中で見てる海老からしたら、仲間の頭まで吸い尽くす人間が集うこの空間は、恐怖でしかないだろう。

プロフェッショナル『伝統を紡ぐ、革新を織る〜織物職人・金谷博〜』の回を観る。

ホテルの一室に掛け軸のような西陣織を、という仕事で金谷さんが作ったのが、京都の情緒を表す、生地そのものが湖面になる織物。これが息を呑むほどの美しさだった。

透明感のある表地と金の裏地が織りなす立体感。糸の連なりが光を纏い、水の生命感と静謐さが同居する一枚の布となっていた。

いつか実物を見てみたい。

※金谷さんの作品は、ホテルオークラ京都 岡崎別邸の一室で見れるようです。

壁に掛かっているのが金谷さんの作品

3月9日 土

前日無駄な夜更かしをして、寝たのが4時半。
10時に起きても頭がぼーっとする。金曜の夜更かしで土曜が狂ってしまう、初歩的な失敗。

ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』を観る。観るのは3回目くらいだけど、映画館では初めて。

やはり、よくわからない。
ただ、残酷な美しさみたいなものに、どうしようもなく魅了されてしまう。

特に、初めて観たときから鮮明に記憶が残って忘れがたいのは、姉のイサベルが、自分の血を口紅のように唇に塗るシーン。

以前読んだ本作のパンフレットに「この素晴らしい美しさを獲得した映画の成功は、幼年の視点をこの姉妹の複数に設定したことにまずかかっている」と書かれていた。
まさにそう感じながら、さらに重要だと思ったのが、この姉妹が単純な対比におけるメタファーの役割を担いきれない、揺らいだ存在であることだ。

妹のアナは1940年当時のスペイン共和国の純粋な若い世代を象徴し、姉のイザベルのうそは金と権力に取り憑かれた国粋主義者を示している、といった考察、解釈がされているが、わたしはそう決めつけてしまいたくない。というか、よくわからないままにしておきたい。

”互いに力を及ぼしあいながら、互いのまわりをめぐり、ときに一方が蝕となり、次に他方が蝕となる”

フランケンシュタインを巡る幼い姉妹の体験は、一種の世界冒険でもある気がする。

3月10日 日

埼玉県立近代美術館でアブソリュート・チェアーズの展示を観る。

椅子は多くのデザイナーや建築家の創造性を刺激する絶対的なテーマであると同時に、アーティストにとっても魅力的なモチーフとなってきました。玉座のように権威の象徴となることもあれば、車椅子のように身体の補助となることもあり、電気椅子のように死や暴力とも無縁ではない椅子。また、私たちが椅子に座って向き合えば、そこには関係が生まれます。この上なく身近でありながら、社会や身体との密接な関わりの中で幅広い意味や象徴性をまとった椅子は、まさに究極の日用品と言えるでしょう。
アーティストたちは椅子のもつ意味をとらえ、作品を通じて社会の中の不和や矛盾、個人的な記憶や他者との関係性などを浮かび上がらせてきました。アートのなかの椅子は、日常で使う椅子にはない極端なあり方、逸脱したあり方によって、私たちの思考に揺さぶりをかけます。
本展覧会は、主に戦後から現代までの美術作品における椅子の表現に着目するものです。椅子をめぐる国内外の平面・立体・映像作品83点を紹介し、アートのなかの椅子の機能や含意を読み解きます。

埼玉県立近代美術館HPより
『坐ることを拒否する椅子』

展示室入ってはじめの部屋に岡本太郎の『坐ることを拒否する椅子』があった。

椅子でありながら「坐ることを拒否する」という意外性あふれる作品である。ギョロリと目をむき、人間に媚びることのない佇まいはまるで生き物のようだ。
精神的にも肉体的にも人間に対抗する椅子は、機能性、合理性を追求したモダン・ファニチャーへの批判から生まれた。空虚な現代の生活を活気づけ、充実させるためには、ただ座り心地がよいだけの椅子では事足らない。
つかの間の休息のみでまた立ち上がり、人生の戦いへと赴く生き方に相応しい椅子として考案された本作には、人々を挑発する岡本太郎(1911-96)の芸術のあり方が端的に表れている。ごつごつとした座り心地は、道端の石や木の根っこなどに腰を下ろす一時の心地よさとも通じており、座るという営みの原点を思い起こさせる。鮮やかな色彩は、椅子に腰かける時間よりも長い、生活の中で椅子を眺める時間を豊かにするためのものである。

作品の解説を読んで、なるほど〜と思いながら眺めていたら、
展示に入場した一人の若い女性が、カバンの中身を整理しようと、一直線に『坐ることを拒否する椅子』のところまで歩いて、荷物置きとして椅子を使い始めた。

この椅子の、というよりこの展示の趣旨すら理解してない女性によって、坐られることなく荷物置きとして使われた椅子の内心はいかに・・・。

印象に残ったのが、シャオ・イーノン、ムゥ・チェンによる『集会所―高塘』『集会所―西安・大興善寺』という2枚の写真。

写真に映っているのは、ステージと、ステージに向けられた何十何百脚もの椅子だけ。
にも関わらず、文化大革命の舞台における、客席の椅子側から舞台を眺めるような構図は圧倒的な異質さを放ち、決して立ち戻ってはいけない権力の気配を感じさせる。

この写真を前にして、わたしたち鑑賞者はただ眺めるだけでいることは許されない。歴史とどう向き合うのか。その問いに対して、よくわからないからと中立のスタンスを取るのではなく、自分なりにしっかりと考えて自らのスタンスを明確にすることを求められる。

写真は、矢津吉隆と山田毅による資源循環プロジェクト「副産物産店」による、アーティストのスタジオから出る廃材で作った椅子。

手前の椅子と真ん中の椅子の座り心地が意外と良くて、不思議な安心感があった。それは、高級な椅子じゃなくても、座れればこんなに心落ち着くんだ、ということからくる安心だったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

アブソリュート・チェアーズの展示を見終えて、1階のMOMASコレクションの展示へ。

倉俣史朗の『ミス・ブランチ』を観ることができた。
うっとりとしてしまう美しさ。ずっと眺めていられる。

斎藤豊作の『建て掛けの家』という絵も好きだった。

青々とした空。家がオレンジで、木の緑も鮮やか。
彩度の高さがXXなノスタルジーを感じさせる。
屋根に登って作業する男性二人もかわいらしくて、家に飾りたい絵だ。

美術館を出て公園を散歩する。

「お父さーん、鬼ごっこしよー!」
「えーー」
というやりとりが聞こえて思わず苦笑いしてしまった。

たしかに、子どもの頃はあんなに楽しかった鬼ごっこも、この年になると恐怖でしかない。いきなりアキレス腱を切ったりしないだろうかと。

花粉がひどすぎたので、帰宅後すぐにシャワーで洗い流す。

3月11日 月

社内チャットツールでウケ狙いの投稿をした後、他の人がリアクションをしてくれるのをニヤニヤしながらこまめにチェックする。我ながら気持ち悪い。

こういうことするの久しぶりだ。前職では結構あったが、今の会社では今日が初めて。転職して半年でようやく少し馴染めてきたかもしれない。

まだ寒いからユニクロでフリースを買おうと思ったのに、店頭には春夏の薄っすい服しかない。まだ寒いだろ! 今この季節のニーズに応えてくれよ!

3月12日 火

何年か前までは、インスタのいいね数とかYouTubeの低評価数が、画面に表示されていた。それが当たり前だった。
でもいまではそれらを見れなくなったし、見れないことを当たり前に感じている自分がいる。

テレビをボーッと見ていたら、野球少年が使ってる巨大水筒が映った。懐かしい。わたしも小中学生のとき使ってた。
いま考えるとこんなもの持ち運んでたなんて正気の沙汰ではない。とてつもなく元気だったんだな。

3月13日 水

出張前なので仕事が忙しい。忙しいのに、システムエラーが起きてめちゃくちゃ苛ついた。

『希望のかなた』を観る。
カウリスマキは画作りが本当に上手いんだなと感じる。レストランのシーンなど、さまざまな色、さまざまな質感の四角形が画面のなかにたくさんあって、とても美しい。

ラストシーンは、主人公カーリドの深刻な状況に対して、それにマッチしていない表情、顔を舐める犬、フィンランドの風景が映る。そのうえに前向きな音楽が乗っかって、感情がぐちゃぐちゃになった。

3月14日 木

仕事終わりに新幹線で東京から三島へ(出張のため)。

三島に着いてコンビニに寄ったら、スイーツコーナーでおばさんに話しかけられた。
「これなんだって感じ?」
と、ブラックサンダーのティラミスを指差して。
わたしがティラミスを買うか悩み続けて、3分くらい見つめていたからだろう。見つめてたというか、睨んでたのかもしれない。

東京ではこんな感じで話しかけられないなあ、いきなり地方の優しいエピソードゲット! と思ったけれど、よく考えたら東京ではいつも自分がイヤホンつけているから話しかけられないのだろう。原因は自分の方にあった。

宿はドーミーインで快適。
大浴場に上司がたくさんいた気がするけれど、わたしはメガネをしてないと人の顔も見えないので、確認できないまま一人で寛いだ。
上司からしたら挨拶してこない部下・・・。気まずくて早めに出た。

3月15日 金

朝8時前にホテルを出発して、目的地まで30分くらい歩く。

5分くらい早く着いてしまったので、集合場所を通過して少し歩いてから引き返す。すると真正面にきれいな富士山が見えた。ずっと背中側にあったから気づかなかった。日本一高い山にさえ、背中では気づけない。

帰りは三島二日町駅から伊豆箱根鉄道駿豆線に乗る。この駅は改札口に自動改札機がない。
券売機で人数分の切符を買ってるうちに電車が来てしまった。急いで切符を買って乗り口まで走るわたしたちを見て、電車は出発を待ってくれた。

これは紛れもなく地方ならではの優しいエピソードだ! 東京ではこうはいかない。運転士さんに感謝。

3月16日 土

『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記) 』を読み終わって、昼過ぎに渋谷へ。

天ぷらを食べて、LINE CUBE SHIBUYAでM-1ツアー。
初めて生で真空ジェシカを見れてうれしい。

わたしを大事にしてくれる人を、わたしは大事にする。
わたしをそんなふうに扱うのなら、わたしも少し意地悪したくなる。

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