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教育の偉人について考える(7)ー斎藤喜博(1970)斎藤喜博全集9教師の実践とは何か私の授業観ーから

本日は学会で青森へ前入りをしています。🍎
学会だからお休みなんていうことはせずに,引き続き記事は書いていきます。

ここ最近は,目標のことから考えることが多かったですね。次は,評価の振り返りといきたいところですが,そもそもの個別最適な学びを昔の本から考えいきましょう。

本日は,「斎藤喜博(1970)斎藤喜博全集9教師の実践とは何か私の授業観.国土社,東京」から読み進めていきます。

多くの教師は、実際に仕事の上で「ふみおこなう」ことも「登る」こともしていない。確実に歩いてみたり、自分の力で目の前にある事実を動かしたり事実を新しくしていない。すでに人が登ったことのある山を、一歩一歩確実に登って確かめ自分のものとする努力もしていない。さらに自分の力にあまる未踏の急峻をよじ登るために疲労困憊しながらも、ついに未知のものを探究し発見するという根のつきるような努力もしていない。そういうきびしい創造的な追求的な仕事や、自分に忠実な仕事はしないで、単に人の実践のものまねをしたり、そのときどきの流行を追いかけたり、形式的な仕事を惰性でやっていたり、自分の持っている常識的な知識だけを子どもに押しつけたり、観念的で公式的な考え方だけを子どもに押しつけたりしてその日その日を過ごしている。しかし、こういうものは「実践」などとはいえないものである

斎藤喜博(1970)斎藤喜博全集9教師の実践とは何か私の授業観.国土社,東京

結構厳しい考え方だなと思います。
ただ,真の実践者として行動する時はこういうことなんだろうと思います。自分が置かれている環境の中でやることができる限界はあるかもしれませんが,自分の方で閉ざしてしまったら良い実践は行えなくなってしまうということがあるのではないかと思います。

ただ,自分で切り開いていくだけではなく「すでに人が登ったことのある山を、一歩一歩確実に登って確かめ自分のものとする努力」のように,先人が行ったことを確かめてみるということも大事だとしています。
今この本で学んでいることを真似することも大事になるのだろうと思います。

現場に入った最初の頃から10年経つくらいまでは,すでに人が登ったことのある山を登り,自分の力としていくことが重要になるはずです。
その間にも自分の個性を活かした授業を学級で創り出すことで,斎藤先生のいうような創造的な授業ができるのだろうと感じます。

自分で考え自分で実践をするとともに、他人のすぐれた実践をまねるということも必要になる。しかしこの場合は、どこまでも他人の実践に感動し、他人の実践から学ぼうとして、他人の歩いた道を一歩一歩そのとおりに歩いてみることが必要である。そういう忠実な学び方をすることによってはじめて、他人の実践の底にある真実をつかみとることができる。他人のすぐれた実践が、どのような考え方で、どのようなすじみちで行なわれているかということをはっきりと知ることができる。そして、そういう学び方をすることによって、それまで自分で積み重ねた実践を変更したり、確実なものにしたり、新しい自分の方法とか考え方とかを豊かにつくりだすこともできるようになる。

斎藤喜博(1970)斎藤喜博全集9教師の実践とは何か私の授業観.国土社,東京

良い実践だなと思って,真似をしてもうまくいかないことがあるのはこの文書の「どのような考え方」の部分を理解できないから難しいのではないかと考えています。真似することに加えて,相手の背景を知らないと真似もうまくいかないと考えます。

個性化・個別化と言われて,学級の子どもたちの個性が尊重されているので,かなり実態にも影響が出ると考えます。そうした時になぜこの先生はこのような学級経営をして,授業ではその学級経営が色濃く出るのかということまで読み取ろうとしないと真似をしても多分失敗するのだと思います。

読み取るためにも,他人の実践に感動することや他人の実践から学ぼうとする意識が必要です。

教師の信念とも照らし合わせながら調整していくことが重要だと感じました。本日はここまでです。
また次回の記事で!

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