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個別最適な学びについて考える(58)ー赤堀侃司(1993)学校教育とコンピューターから

こんにちは!
今日は遅めの投稿になってしまいました。
すみません。ほどほどに投稿していくようにしますので読んでいただければと思います。よろしくお願いいたします。

どこかの時間で暇になった時に他の記事も見てくれたらなと思います。
いろんな記事を読んでくださっているのでとても嬉しいです。
続けて頑張ります!

本日は「赤堀侃司(1993)学校教育とコンピュータ.日本放送出版,東京」です。早速読んでいきましょう!

 授業の営みは、教育内容をメディア(媒体)を通して学習者に伝達することが基本である。情報を受け取る側の頭の中の知識の変化を学習と呼び、それを援助するため情報を与えることを教授という。
 この意味からすれば、授業の営みは学習が中心課題であり、教授は補助的機能と言える。簡単に言えば、学習者が自ら進んで教科書を読み、資料を探して学習できるならば、無理に教えることはない。
 今日の自己教育力や自己学習力は、そのような、自ら進んで学習できる能力を示しているのであるから、教授という機能はなるべく補助的であることが望ましい。いわゆる教え込み型と呼ばれる教授方法は、教えるという機能が強力であり、学習者の主体的な学習をあまり考慮していない。
 それは知識という情報を注入すれば、そのまま学習者の頭の中に受け入れられるという発想であり、頭の中の知識構造の変化という学習機能を重視したものではないと考えられる。

赤堀侃司(1993)学校教育とコンピュータ.日本放送出版,東京

教え込みが悪いわけではありません。
しかし,あくまでもその活動は補助的であるということを考えなければいけないのかもしれません。
頭の中に知識を入れれたとしても,変化を起こすのは学習者自身であって,学習が成立するわけではないと考えられます。

現在言われているような自律した学習者を育てていくためには,補助的である行動をしてくことが望ましいでしょう。
自分に置き換えて考えてみると,自ら学びたいと思ったことはなんか覚えられているけど,受験勉強の時の知識なんて少しも覚えていないなんてことがあるはずです。(自分はそうです。笑)

心の中に名言として赤堀先生の言葉を持っておきましょう!

教授という機能はなるべく補助的であることが望ましい

個別最適な学びが少しでも難しくならないように考え方を変えていきましょう!

本日はここまで!また次回の記事でお会いしましょう!

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