この映画の「本当の主人公」は誰か あるいは マージナルな存在 〜 「模倣の人生」ジョン・M・スタール監督、1934年

シネマヴェーラ 「模倣の人生」、原題 Imitation of Life ジョン・M・スタール監督、1934年を観た。

同題のリメイク(邦題「悲しみは空の彼方に」ダグラス・サーク監督)が1959年に制作されているが、未見である。

白人の寡婦・ビーは亡夫の事業を継承して働くシングルマザーのワーキングウーマンである。多忙な彼女は、幼い娘の世話係を兼ねる家事手伝いとして、やはり娘のいる黒人メイドのデライラ叔母さんをひょんなきっかけから雇うことになる。

ビーはデライラの作るホームメイドのパンケーキが美味しいことに気づき、店頭で販売し、さらにパッケージ商品化して大成功をおさめる。デライラも富を得るが、あくまでも慎ましく奥さまに仕えつづける。

しかしデライラの娘・ピオラは、母が黒人でありながら父親の「黒人の血が薄かった」ために外見は白人そっくりであることから、アイデンティティに悩み出奔する。デライラはショックを受けて寝込んでしまう。

並行してビー奥さまのほうも、成長した娘との間に自分の恋人をめぐって期せずして三角関係状態に陥ってしまう、・・・というプロットである。

メイド(デライラ叔母さん)と奥さま(ビー婦人)のドラマは、絡み合うようで、並行して進んでゆく。ホームパーティが成功したあとの二人の邸宅で、夜になると奥さまは階段を上り、メイドは下って寝所にゆく。上と下への対照的な動きで上下関係が示されている(後述のDonald Bogleも同じ指摘をしている:動画)。

デライラ叔母さんの造型は、愚かであるが善良かつ忠実で、白人に富をもたらすが自己主張せず慎ましいという白人にとって都合の良い黒人像に沿っている。彼女はパンケーキを売るためのイメージ・キャラクターに採用されるが、そのとき「笑って」と言われてそのままの顔で間抜けにフリーズする。まるでコメディショーのワンシーンのようだ。

そして、あまり知的ではなく「魚類学者」という専門用語が分からず、憶測で知ったように答える。ビーの娘も大学に通っていながらその言葉が分からないが、彼女はこっそり事典を調べてチートするのは対照的だ。

また、パンケーキのヒットにより大金が入ってくることを奥さまから知らされても、「奥さまのもとで働ければそれで良いです」と慎ましく答える。唯一カネを惜しみなく使うのが本人の葬礼である。

これらの造型は、黒人ステレオタイプのいくつかにぴったり当てはまっている(参考:赤尾千波「アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ~『国民の創生』から『アバター』まで~」梧桐書院)。白人の主人公に尽くす「アンクル・トム」。乳母としての「マミー」。白人の主人公を助けにやってくる「マジカル・ニグロ」の3タイプになるだろうか。

とはいえ、デライラ叔母さんの葬式の堂々たる描写をみても、黒人をバカにしようという直接的なヘイト感はほとんどない。

ちなみに本作の公開年には、ハリウッド映画の自主規制基準であるヘイズコードが設定されており、その中で過度に暴力的な表現も規制されている。そのため、ヘイト的表現が露骨に現れなくても当然といえるのかもしれないが、それだけではないと感じる。

白人のビーもデライラと同様、働く寡婦でシングルマザーであるというマイノリティに属していることから、父権的な白人上位というよりも、シングルマザー同志の互助的連帯感が物語の通奏低音になっており、差別意識をあまり感じさせない理由の一つだろう。

しかし白人優位目線であることは変わらない。いわば、「暗黙の差別に気づかないふりをした善意に基づいた作品」とでも言うべきだろうか。ふと思ったが、こういった表現、いまの日本の大多数のオーディエンスにとっては特におかしいと思われず、「良いハナシだなあ」と感動する材料に留まってしまいそうだ。たしかに非常に良い感動話で、作品内世界だけでみると違和感はない……「主人たる白人」の立場に同一化するかぎりは。

これに対して、デライラ叔母さんの娘ピオラは「ムラータ」つまり「混血児」キャラクターの黒人ステレオタイプにあてはまるのだろう。黒人の血をひくが、外見は白人そのものなので、白人のまがい物のようにみられてしまい子どもの頃から苦しむことになる。

ピオラは成績優秀であり、ビー夫人らの勧めもあって、南部のハイレベルな黒人専用大学に進学する。しかし白人ではない、黒人にもなりきれないアイデンティティ危機は止まず、まもなく出奔してしまう。

彼女のアイデンテティクライシスは、母親であるデライラを拒否するかたちで現れる。愛娘による拒絶のつらさは、間接的にデライラの命を奪ってしまう。しかし娘は母親の死に直面して悔やみ、家族に回帰する。

こういった物語の流れそのものは「白人になろうとするな、黒人は黒人としてあるべき」という暗黙の教訓のようにも解釈できないこともない。

じっさい、キネ旬データベースのあらすじには「ピオラもついに自己の民族的運命に従うほかない事を悟り、ビーの家庭で女中として更生することとなる」という、今から見るとかなり「エグい」筋書きが掲載されている。ひょっとしたらリリース段階ではそういうプロットもありえたのかもしれないが、これは最終的な脚本や映像の表現とは異なっており、映画ではピオラは再び大学に戻ることになる。

(キネ旬データベースのあらすじがどのように書かれているのか私は知らない。他の例を見るとおそらくいずれも公開当時に書かれているようだ。日本人が書いたのかもしれない。要検証である)。

しかし、この部分は、もう少し読み方を変えることもできる余地があるように感じられる。

ピオラのエピソードはムラータに固有の問題ではなく、たとえば在日外国人問題や性同一性障害など、各種ハンディキャップに起因する、思春期〜青年期に頻発するアイデンティティ危機にも通じる描写のようにも読める。

表題の「模倣の人生」とはどういう意味なのか・・・。Imitation とは白人になれないピオラのことだろうか。そうするとこの映画の「本当の主人公」はピオラということになる。

ピオラの造型自体も白人奥さまの愛娘ジェシーと比べてフェミニンさが薄くなっており、中性的なイメージを受けないこともない。単にピオラというキャラクター自体が、継続的なストレスを受けているので表情が硬いということかもしれないが、それにしてもマージナルな印象が的確に演出されていると思った。

そういったアイデンティティ危機の問題を紋切り型ではなく、ある程度人物造型から描き出そうとしているので、公民権運動以前の作品でありながら、今観るに耐える描写になっているのかもしれない。1934年といえば、昭和9年であり、その時点でこれだけの脚本の力がハリウッドにはあった。

たとえばバリー・ジェンキンスの近作(「ムーンライト」「ビール・ストリートの恋人たち」)を観ると、アメリカ映画でありながら何か知らない世界を観ているような気がする。この違和感は、時代の違いというもの以上に、新しい作品はこの「模倣の人生」など古典ハリウッド映画の多くでみられる「隠された白人目線」ではもはや描かれていないということなのかもしれない。

ピオラを演じたフレディ・ワシントンはヨーロッパ系とアフリカ系の血を引いており、薄い肌に緑色の瞳など外見的にはあまり黒人らしくない、まさにピオラ役にぴったりはまる女優である。しかしピオラが黒人のルーツを拒否したのとは対照的に、彼女自身は自分の出自に誇りを持っていた。

フレディ・ワシントン本人がDonald Bogleに語ったところでは、ピオラ役のセリフで彼女が最も嫌ったのは「私は白人になりたい」というくだりであったという(TCM Race & Hollywood "Imitation of Life")。彼女はのちに公民権運動に関わり、黒人俳優組合の設立メンバーにもなった。



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