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大切な人を想う◇追懐②

私は母ひとり子ひとりの母子家庭で育った。父親には一度も会ったことがないので顔も知らない。
そのことを不幸だと思ったことはなくて、居ないものをねだるような子供ではなかった(そんな頃から冷ややかな性格だったのかもしれない)。
母と私は親子であって親友でもあって、私が大人になるにつれて少し頼りない母は時々、妹のような存在でもあった。
子供の頃は母方の祖父母と4人暮らしで、祖父は父親代わりをしてくれていたし、勤めていた母が家に居ない間は祖母がよく面倒を見てくれていた。
そんな暮らしだったから祖父母によく懐いていて、地区の老人クラブのような集いにも一緒に行ってそこで将棋を指したり、コマの回し方を習ったりした思い出がある。

祖父の仕事は土地家屋調査士だった。
当時の人にしては背丈が大きくて、ワイシャツにネクタイをして上着を羽織って仕事に出掛けるのだが、それに洒落たベレー帽なんかを被っているのでいつでもよく目立つ人だった。
上着の内ポケットには年季の入った万年筆を忍ばせてあって、それで達筆な文字を書く様子は小さな私が見ても格好良かったし、持ち物も洋服もハイカラな人だった。
地元の駅前に祖父は事務所を構えていた。私には遊び場のようなそこで祖父の仕事が終わるのを待って帰りに駄菓子を買ってもらうのが楽しみだった。
図面を引く時に使う三角スケールや、千枚通し、4Hや5Hのやたらと硬い鉛筆など学校では使わない文房具はどれも興味を引いたし、小学校高学年くらいになると測量を手伝わせてもらえるようになって何だか嬉しかった。
祖父は私が16歳の時に心不全で他界した。

祖母は大柄の祖父とは対照的に小柄な人で、朝から晩まで忙しなく家のことを賄ってくれていて掃除の仕方や洗濯物の仕舞い方なんかは祖母に習った。
勤めている母に代わって夕飯を作るのも祖母だった訳だが、いわゆる茶色いおかずが多い食卓で育った私にはそれが普通だと思っていたので、いつだったか同級生の家で食事をご馳走になった時のカラフルさに激しく驚いた。
祖母がいつも家に居てくれたおかげで私は鍵っ子ではなかったし、子供の私が話す意味もわからないであろう今日の出来事も根気よく耳を傾けてくれたから淋しいと思うこともなかった。
私が12歳か13歳の頃に脳梗塞で倒れて、その時は幸いひと月ほどの入院で回復したがしばらくすると軽い痴呆が出てきて、それが顕著に表れたのが料理だった。味付けの仕方が分からなくなるのか薄かったり濃かったり、何味かわからない不思議な料理を作るようになった。
祖父を見送ってすぐに今度は脳出血を起こして、右半身が麻痺したままになったのをきっかけに施設に入ったけれど私が19歳の時に他界した。


祖父も祖母もとても働き者だった。
そんな両親から生まれた母だから、神経難病で不自由な体であっても仕事を持つことに一生懸命で、どうにか働きながら、か細い腕で私のことを育ててくれた。
不平不満を言わない辛抱強い人で、口下手も手伝ってか静かに我慢する人だった。
祖母が施設に入所していたのは1年間だけだったが、自宅から車で2時間近くかかる場所の施設だったので仕事帰りに様子を見に行って帰るとなると22時~23時になるし、金銭的なことも心配だっただろうし、何より進んで祖母を施設に入所させたかった訳ではなかったと思うから、この期間は心身共に大変だったと思う。
当時私は上京していたのだが、いちいち聞かなくてもそう言った様子は容易に想像できたから、地元に戻ろうかと母に二度問うたことがある。
『帰ってこなくていいよ。大丈夫。』と返すような人だ。

『〇〇美味しかった』と言うと、そればっかり食卓に並ぶようになる。
出掛ける時は『いってらっしゃい』と必ず言ってくれて、決まって『また、あとでね』と付け加えて笑う。
時々は口喧嘩もした。本当にどうでもいいような内容なので、しばらくすると自然と仲直りしたことになった。
サスペンスドラマが大好きで、ご贔屓のシリーズを見ながらお茶を飲むのが何よりも好きだった。
濁音や拗音の文字が上手く打てなくて怪文書のような文面に、更によくわからない絵文字を付けたメールを送ってきた。
難しいことが苦手で、良く笑ってごまかしたりもしていた。

誰よりも可愛く笑う、私の自慢の母だ。

そんな母は神経難病に加えて末期の膵臓癌を患って昨年の9月8日に他界した。
祖父母を見送った時とは明らかに違う、本当の別れの意味をようやく理解して自分の無力さを思い知るような1年間だった。
淋しいと思わない日はなくて、当たり前のように会いたいと思ってしまう日々だった。
いろんなことを思い出して、いろんなことを後悔して、いろんなことを謝るような毎日だった。

6日に1年忌法要を済ませて今日を迎えている。
どんなふうにこの日を過ごそうかと考えたけれど、いつも通り仕事をしてその時刻を見送ろうと思う。
笑っている母が大好きだったから、私には特別な人だから、今も幸せに笑っていて欲しいと心から願ってやまない。

働き者の人たちに育てられた私もそれなりに働き者になった。
業種は違うが祖父のように起業して間もなく9年が経つ。
パソコンばかり使う仕事だから筆記用具を使う頻度が少ないため、鞄に入れているのはその辺で買ったzebraの二色ボールペンだけだ。
万年筆を購入してみようか。上手く使えるかは別にして。

祖父に、祖母に、そして母に恥ずかしくないように日々を生きてゆこうと思う。
褒めてもらえるような生き方をしたいと思う。
それが一番の孝行になるのではないかと、この1年を過ごしてみて出したひとつの結論だ。
きっと来年、再来年と結論が増えていくだろう。
出した結論の答え合わせをしながら歳を重ねていくのも悪くない。
どうしたって悲しいのだから、無理に悲しくない顔をする必要もない。

いつかまた会えるといい。
それまでは記憶を綴りながら大切な人のことを、いつまでもいつまでも思いたい。

2021年9月8日。

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