【小説】鳴らない着信音
♩〜
バッグの中に突っ込んだままのスマホから、何やらメロディが流れている。私は少しだけ躊躇って、それからスマホを取り出し画面を見た。
予想通り、そこに表示されていたのは見知った名前。つい数週間前まで「恋人」だった男の名前だ。
――今さら何の用よ。
知らず知らずのうちに眉間に皺が寄るのを感じながら、画面に表示された緑と赤のアイコンのうち、赤い方をタップする。途端、「着信中…」の表示は消えて、代わりにいつもと同じホーム画面があらわれた。
あいつとは、もうずっとうまくいっていなかった。少なくとも私はそう感じていて、お別れを告げるずっとずっと前から悩んでいたのに。いざサヨナラを伝えたとき、あいつは笑って言ったんだ。
――それは俺がお前を愛している証拠じゃん。伝わってなかった?
愛している証拠、ねえ。
わかってはいた。あいつが私を本当に好きだってこと。ストーカーばりの束縛、嫉妬、夜中の突然の電話、嫌味をたっぷりまぶして原型を留めなくなった賛辞……あのすべてが、あいつにとっての精一杯の愛情表現だって。
だから私も、その気持ちに応えたいと思ったよ。最後の最後までそう思ってた。私だって、本当は好きだったんだ。
でもね、やっぱりダメだった。いつのまにか、電話の着信音が鳴る度に心臓が早鐘のように打つようになって、画面を見る手が震えて。電話をかけてきたのがあいつだってわかると、受話器をあげる緑色のアイコンを押す手が一瞬躊躇することに気づいてしまったから。
あいつの気持ちを知っていてもなお私は、それに応えたくないと思っているんだって、理解してしまったから。
サヨナラを告げた後も、あいつからの連絡は止まらなかった。あいつの中で、まだ私たちは終わっていないのかもしれない。終わったことを認められずにいるのかもしれない。本当の気持ちはわからないし、もうわかろうとすることもできない。
もう、おしまいなんだ。
その夜私は、あいつの番号を着信拒否リストに入れた。そして電話の着信音を、これまで使っていたデフォルトのアラーム音から、好きなアーティストの曲にかえた。これでもう、私を脅かすアラーム音は鳴らない。電話が来る度にびくびくすることもなくなるだろう。
そう思ったら、背中にふわりと羽が生えたみたいに軽くなった。体も、心も。あいつと過ごす日々が、あいつから向けられる歪んだ愛情が、思っていたよりもずっと私を蝕み、重荷になっていたのだ。私はその事実から、ずっと目を背向けていたのだ。
あの着信音はもう鳴らない。
私は何かをなくしたかもしれないが、それでも十分なほどに今、満たされている。
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