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病院にて 〜 赤いワンピース 〜

 まだ、コロナの影が露ほどもなかった頃の事。患者のAさんの元に、ご主人が毎日面会に来られていた。Aさんは六十歳前半の認知症の方。でも、トイレも着替えも食事も自立されており、童顔で可愛いらしい女性だった。

 Aさんは病気のせいもあって感情的になることも多く、ご主人の面会が遅いと携帯電話でヒステリックに叫んでいた。「何で来ないの!早く来い!」そして「バカにすんな!」それが彼女の口癖。

 ご主人は、Aさんに似合う青と白のギンガムチェックや真っ赤なワンピースを着替えによく持ってきていた。「明日のお風呂の後は、赤いワンピースを着せてあげてください」などとリクエストされる溺愛ぶり。

 病棟レクレーションでカラオケがあると、Aさんは、中島みゆきの『糸』を上手く歌い上げた。♪縦の糸は貴方、横の糸は私♪そのレクレーションの最中もご主人は側にいて、ずっとAさんを見つめていた。それが一昨年までの、いつもの風景だった。


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 コロナが流行り、面会制限ができたのは去年のゴールデンウィークあたりからだろうか。面会ができるのが週一回の十分間、それからガラス越しでの面会、最終的には面会禁止と、ふたりを取り巻く環境は変わっていった。

 そんなある日、ご主人自身が病気で入院すると言いに来られた。「その間、妻をどうかよろしくお願いします」それが去年の暮れ。赤いワンピースと白くてふわふわのジャンバーの着替えを持って。

 それからしばらくして、Aさんは便失禁もするようになり、ギンガムチェックや赤いワンピースは着れなくなった。病院のトレーナー上下と、紙おむつをするようになり、あんなに待ちわびていたご主人の事も言わなくなってしまった。面会が出来なくなって、一気に認知症が進んだように感じた。

 もう、ご飯はひとりでは、ほとんど食べれない。着替え方もわからない。それでも、テレビで悲しい場面が流れると、涙を浮かべている。部屋へ誘導する時、手を引きながら『糸』を歌うとAさんも一緒に歌ってくれる。

 紅葉が色付く頃、ご主人が亡くなったと連絡があった。癌だったと分かっていたのだろう。あの日「妻をどうかよろしく」と着替えを持ってこられた日が、最後になってしまった。Aさんに会うこともできないままに。

 Aさんの部屋には、夫婦ふたりで並んだ写真が置いてある。会えない時にご主人がAさんに書かれた手紙も、引き出しに入っている。でも、Aさんはそれらを手に取るどころか、見ることもしない。

 いつも童女のように笑っているAさん。昔のように喜怒哀楽の表情を見せることも、ほとんど無くなってしまった。最愛の夫を亡くした事さえ分からず、穏やかな笑顔で、別世界を生きているようだ。



 それでも、思い出したように「バカにすんな!」とAさんが言う時、ふと、側にご主人の影を感じるのだ。







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