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レフン監督『オンリー・ゴッド』で描かれる"神"の 存在

ニコラス・ウィンディング・レフン監督の作品には宗教や神話といった形而上学的なものが軸になっていると感じる。彼自身の宗教観が強く表れているからだろう。それが顕著に表現されたのが『オンリー・ゴッド』である。

「難解」「何がしたいのかよくわからない」「レフンの失敗作」などという声を良く聞くのだが、私は必ずしもそうではないと思う。レフン監督らしさは相変わらず爆発しており、映像を一つ一つ紐解いていけば私的な解釈ではあるが十分理解もできるし、間違いなく面白い。

本作は彼自身の宗教感だけでなく、彼が敬愛するアレハンドロ・ホドロフスキー監督(本作も彼に捧ぐとクレジットに書いてありました。)の影響も大きくあるだろう。ホドロフスキーは演出家、タロット研究家、セラピストなど多岐に渡る肩書きを持ち、その作品歴を見ても難解なものが並ぶ。『エル・トポ』(1970)や『ホーリー・マウンテン』(1973)など挑戦的な映像表現とカルト的とも言えるテーマは多くの映画に影響を与えてきた。『オンリー・ゴッド』も例外ではないはずだ。

『ホーリー・マウンテン』より。物質主義を捨てた解脱への旅をカルト的な映像で表現した。難解と思われがちだが、監督が描きたかったのはプロットを追うような映画ではなく、映像自体に没入するようなもの。レフン監督の作品の"寡黙さ"にも共通点は見られる。

まず、この映画で重要なのが神の存在だ。

原題の"Only God Forgives"から分かる通り、この映画は神を軸として物語が展開する。

ただし、本作の"神"というのは、形而上学的な存在ではなく、舞台となったバンコクの街で圧倒的な権力を持つおじさんのこと。

映画序盤、1人の売春婦が殺されてしまう。"神"は殺害現場にいた犯人を拘束するが、逮捕はせず、その売春婦の父親を連れて来させて復讐をさせた。

まさにハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」の復讐法を復活させたかのような世界である。父親は怒りのあまり犯人を殺してしまうのだが、”神”は「殺すのはやりすぎだ」と言って今度はこの父親を罰してしまう。 (なんとも無茶苦茶なおやじである。)

何故、父親は殺人犯を殺したことが罪になってしまったのか?

復讐法のルールに乗っ取るなら、娘の仇をうつことは正当であるのに。

その理由は、彼のルールは復讐法のようなものではあるが、それと同時に個々人の罪についても問うものだ。

この父親は、娘を殺されることで男を殺す権利を得たのだが、娘に売春をさせて稼がせていたのが。この世界で言う"神"がどの宗教的ルールの沿っているかは不明だが、淫売行為を許容する宗派など世界のどこを探しても存在しない。(はず。)

欲望に溺れることが悪とされるのは言わずもがな、それを自らの家族を斡旋して助長させるなど誰がどう見ても罪なことは確かである。貧しい家庭環境という釈明の余地はあったにせよ、審判の結果、"神"の許しは出なかったわけだ。

このように、最初の裁きでこの世界のルールは明確になる。

罰する相手の何がどの程度の罪なのかは登場人物各々の行動や台詞でわかる。「一人一人、罪を露呈した後に神によって裁かれる」というのがこの作品のおおまかな流れとも言えるだろう。

"神" - チャンを演じた、ヴィタヤ・パンスリンガム。彼は実際に刀の達人との言えるほどの腕前を持っているため、作中のその素早い刀裁きも納得。無表情で裁きを下すその姿は最高にクールだ。

断罪後に行われるカラオケについては、既に多くの方の考察でも書かれている通り、”神聖な儀式”としての役割を果たしている。

カラオケに参加する者は笑み一つ浮かべず、淡々と歌われる謎の歌謡曲を聞き続ける。お経や聖歌を聞いたことがある人ならば、この光景も不思議と納得できるはずだ。「歌っている内容やその意味自体はあまりわからないが、神聖なものであることはなんとなく分かる」という顔だ。筆者も寺でお経を聞いた時のことをあの場面で思い出した。


レフン監督の映像の美しさとかっこ良さで、このシーンも最初は意味不明であったが、よくよく思えばあの参列者のまぬけ面が並んだところは笑える場面でもあったのかもしれない…。(もちろん監督自身はインタビュー記事などを読む限りそんな人柄ではないと思うので、恐らく笑ったら怒るだろうが笑。)

...続く。


(過去執筆記事 再掲)

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