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遊牧民に生まれるということ

モンゴルは大学を出てもいい職につけるとは限らない。大学はお金がかかるばかりだから高校でてから1年兵隊をして、今はいろんな仕事してるってお兄さんがそう言ってた。

しかもモンゴルは沢山働いても少ししか稼げないって。

複雑な心境だ。

馬乳酒を作っているとき、夢はあるの?と聞いてみた。

そしたら彼は、少し戸惑ったような顔をした後、わかんない。と言った。

顔色が少し暗くなって、本当に自分の夢にたどりつける人はほんのちょっとしかいないよ。

と言われた。私が今このようなことができているのにもある程度のお金と余裕があるからこそであって、私は何も言い返すことができなかった。

僕は勉強があまり得意じゃないんだ、僕の先生はいつも僕をできないやつ、と否定してた。この人本当は何でもできるのに何を言ってるんだろう何をゆっているんだろう、そう思った。

(これだけ言わせて。)子供を否定する先生は、最低だ。それは子供の夢を潰す行為になる。否定は何も生まない。

また、ナンディーカはどうしようなりにー、今度の英語の先生、全然よくないよー(涙)、この文法は何でこうなってるのとか聞いてもよくわかんないって言うし発音もめちゃくちゃ。と、と時々チャットで連絡が来る。

彼女にはそれが言い訳で英語が出来なくなってほしくないと思って、

こないだは、そんなのは全然問題じゃない、どんなときも勉強は自分でしないとわかるようにならないよ。

そんなふうに返した。

たとえ良い先生がいたとしても自分が勉強しなければ全くできるようにはならない。それに自分自身の英語が一番伸びたのはやっぱり自分で勉強した時だっていう経験からそんなに返したけど、

勉強の意欲がもりもりの彼女にとって英語の先生が良くない件は、今まで学校に行けばちゃんとした先生がいる、そんな環境に育ってきた私にとって、

都会と田舎の教育による格差がこんなところからも生まれてしまうのか、と何とも言い難いモヤモヤが残る。

また、遊牧民にとって都会に出ると仕事を探すのが大変なこと。

これもなかなかにシリアスな現状だ。

毎日家畜を扱って、そこで食べて寝てただ生きていく分には生きていける、

都会に行くとそこは何もかもがお金で回る世界になって、お金じゃない助け合いが中心に回っている僕らの生活では、お金がないってだけで除け者にされるんだ。

確かに

世界への切符はお金。

だか、お金が欲しいから仕事が欲しいと言って探そうにも、田舎から来た遊牧民できる仕事は限られてると

そんなふうに言っていた。

実際仕事探しも、トラックのドライバーやスーパーのレジ打ち、などのバイトのような仕事、大学を出た妹でさえクリーニング屋さんの小さな小さな代理店の窓口をしているのを見たときは、

お金という紙切れが生み出す価値の薄さと理不尽さに何も言うことができなかった。

井戸さえ自分で掘ってしまうような生き抜くための経験と忍耐力がある人間が都会に行って履歴書、紙一枚を提出したときに能力のない人と判断されて仕事ももらえないのが理不尽で仕方がない。

遊牧民という職業で自然に負荷をかけずに、かつ、十分にお金がはいってくる仕組み、そんな仕組みをどうにかして作ることができないかと今頭の片隅には要考慮事項として保存されている。(青年海外協力隊みたいな感じのところでこの人たちを引き抜いて、技術者として彼らの、井戸を掘ったり小屋を立てたり、地域でのつながりなど、そういった生きるためのノウハウを生かすことができたらいいのかななんて思ったり。)

一方でまたこの頭の片隅には、でも、お金が入ってきたらあの美しい田舎はどうなってしまうんだろう。とも想う。

都会の近くの田舎と都会から離れた田舎ではやはり自然の美しさが違った。

草原に落ちているゴミの量や、川の水のきれいさ、ゲルのシンプルさ、羊の内臓の美味さ。

お金を流し込みながらも、これらを失わないようにするには、どうすればいい?教育しかない?なにかアイデアありますか?

今、遊牧民の家に生まれた子供が遊牧民生活をやめて都会に行ってしまうことが問題になっている。

表面上から見たらそんな風に簡単に言い切ってしまうことはできる。が本当の問題はこんな小さな小さなことがたくさん積み重なって、それが問題となって現れている。

また、遊牧民の家に生まれた子は遊牧民にならなければならないのか?わたしはそれはおかしいと思う。

また逆に、遊牧民じゃない人が遊牧民になれないのもおかしいと思う。ここら辺がもう少しフレキシブルになるような世界になったら、とイメージを膨らましてみる。

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