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私にとっての松葉舎について

 私は江本伸悟さんの主宰する私塾「松葉舎」に入塾しています。

 このことはnoteにて何度か言及していましたが、当の松葉舎がどのような塾で、どんなことをしているのかをあまり説明してこなかったことに気づきました。なので、この機会に、松葉舎が私にとってどういう意味があるものなのかを言語化する意味も兼ねて松葉舎について説明しようと思います。


 私が初めて松葉舎を知ったのは塾長の江本さんと独立数学者の森田真生さんとの対談イベントに参加した時でした。

 そのイベントの最後の方で森田さんが松葉舎について言及していて、松葉舎を評して「塾生が自分の探求したい命題を見つけるのを江本さんがうまくサポートしている」という趣旨のことを言われていました。
 私も自分が何かを探究したいという想いはありましたが、探究したい命題をどのように明確にすれば良いか分からなかったため、それをサポートしてもらえる機会があるなら受けたいと思い、入塾しました。

 松葉舎は月に4回開かれる授業が主な活動となります(全て参加の必要はなく、最低2回の参加)。
 正確には、その他に特に定まった講義などの無い「ラボ」や課外活動としてゲストを招いてのサロンイベントなどもあるのですが、私は参加したことが無いのでそれらについては語れません。

 授業は東京の会場で行われます(私は東京の地理に詳しくないので、どのあたりなのかよく分かりません)。私は広島に住んでいるのでオンラインで参加しています。
 授業の内容としては、参加している塾生の近況報告や探究している命題の進捗状況及び塾長である江本さんからの講義が主なものとなります。

 参加している塾生は、おのおのが探究したい命題を持っています。
 塾生の中にはファッション創作をされている方や雅楽奏者、ダンサーといった方いれば、仕事としてやっていることとは別のことを探究したい、という目的で学ばれている方もいます。
 探究の仕方は基本的には言葉によるもので、塾生や塾長との対話や自己探求により行っています。
 月に2~4回の授業において、塾生は自分が探究している命題についての進捗報告を話す時間があります。先述したとおり、塾生は様々な分野の方々がいるので、その探究する命題もそれぞれです。私は例えばファッションについての知識はほとんどないので、ファッションについて探求されている方の命題について、直接的には理解できないところもあります。しかし、分野は違えど探究したい命題について言葉で迫ろうとする方法論は、私がまさにnoteで行おうとしている方法に通じるところがあるので、「言葉で迫る」という点において刺激を受けるところがあります。直接的には関わりの無いと思える命題にも、私が探究したい命題に通じるものがあることに気づく体験はなかなか面白く、私自身の思考を深める助けにもなっています。

 私が自分の命題の進捗報告を話す時間では、主にnoteで書いたような気づきについて語ります。
 私は「これを探究したい」という明確な命題があるわけではないので、その時々で気づいた雑多なものから、特に重要と思えるような気づきについて語ります。

 私は自分の思考を自分自身で明確に捉えるためにnoteで文章として言語化しています。そのため、松葉舎で語るその内容自体は、一度自分の中で整理が終わった話題であることが多いです。
 しかし、その話題について授業で語ると、塾長の江本さんや他の塾生の方から、より深めるためのきっかけをいただいたり、別の視点でその話題について考える視点をいただけます。自分だけでは深めることのできない深さ、方向に話題を深めることができるのです。

 以前、文字で言語化することと口頭で話すことの違いについて記事を書きましたが、松葉舎で口頭で自分の気づきについて語ることは、noteで文章化することとは違う効果があります。
 松葉舎で自分の気づきについて語ると、相手の反応から連想が浮かび、違う話題であると思っていたAとBについて意外な共通点が見つかり、Cという通底したより深い命題について見つかる、といったことが起きることがあります。
 文章による言語化は自分の頭に浮かぶまとまりのない思考に明確な輪郭を与える行為であり、松葉舎での語りは、一度一つの形をとった思考について刺激を与えて新しい形に拡散させる行為、という印象があります。スクラップ&ビルドというやつでしょうか。文章化と口頭での語りは上手い感じでスクラップ&ビルドができている感じがします。

 また、塾長の江本さんによる講義では様々な話題が議題に上がります。生成AIについて、言葉の意味が分かるとはどういうことかについて、イスラエルとパレスチナの問題が話題に上がることの私たちにとっての意味、など本当に様々です。 
 それらの話題は私が関心を持たないために深く考えることが無い内容であったり、私では思いつかない視座からの問題提起であったりします。それら自体は私が探究する命題ではないですが、それらの問題について考える起点や視座は自分が考えを深める時に非常に役に立つものです。
 それらを毎回の授業において学べることは私にとって非常に有益なものとなっています。


 さて、それでは私にとって松葉舎の授業はどういう意味を持つのでしょうか。現時点で思うのは、「自分自身をより知るためのきっかけをいただく場」ということです。

 私は初め、自分が探究する命題を見つけたいと思い参加しました。
 まだ私は、生涯探求し続ける命題というものは見つかってはいないですが、暫定的に探究したい命題は見つかりました。それは「私とは何者なのか」という命題です。
 今の私にとっては自己受容が一番大事なテーマです。そのために、自分自身が何を考え、何を感じているかを知ることが大事です。
 日頃自分の心に浮かぶ思考や感情はnoteで逐一文章化しています。それによってある程度の自己理解は進んでいくと思います。 
 しかし、それだけでは日頃の私が触れることができる話題でしか自分の理解を深めることができません。
 
 松葉舎では、私が普段関心を持たない、あるいは触れる機会が無い話題について、塾生や塾長から話をもらうことができます。
 私は自分が何を考えているかを知るには、様々な物事に触れ、その触れたときに私がどういう反応を示すのか知るのが一番良いと考えています。「私は何を考えるのか」と自分一人でウンウン唸っても何も出てきませんが、なにか事に触れればそれに対して反応としての思考や感情が生まれます。それをよくよく観察し、言語化することが私にとっての自己理解につながると思っています。
 その反応の種をもらうことが松葉舎ではできます。

 また、松葉舎では自分のその反応で生じた思考や感情について語ることで、語ったことへのフィードバックがあります。塾生や塾長からの指摘などです。それらは私一人の思考では導くことができないものであり、自分の思考をより多角的に見つめることができます。

 この「自分が普段触れることの無い話題について考える機会が得られる」ことと「自分の思考をより深めること、あるいは別の角度から眺める視座を得られること」という2つが、今の私が松葉舎の授業を受けることで得られている恩恵と言えます。
 そしてその2つの恩恵で私は私自身をより深く理解することができていると感じています。


 さて、これで私が松葉舎で得られているものについて暫定的な言語化ができました。
 これからより長く参加することで、この意味が変わるかもしれませんが、今は私にとってはこういう意味、意義がある活動であると感じています。

 なお、松葉舎は塾生を常時募集しているとのことです。
 より多くの方が参加されれば、私の自己探求のための種がたくさん得られるので、私としても有難い話です。
 この記事を読まれた方で興味のある方は覗いていただければと思います。



 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました! 


 続きのような記事を書きました。