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布数グラムの力

政治がわからぬ。けど、服ならちょっとわかる。

ハンケンリョク ムセイフシュギ

これは前座。本題は「『ViVi』 × 自民党」から。先々月、大阪に行った時にふらと立ち寄った店(名前は忘れた)で思わず買ってしまったTシャツ。胸には「ハンケンリョク ムセイフシュギ」。そういう政治思想があるわけではない。

「ハンケンリョク ムセイフシュギ」Tシャツ

馬鹿正直にこの「ハンケンリョク ムセイフシュギ」のメッセージに共鳴して買ったわけでは全くない。風体、そういう態度を取りそうなナリをしているもので、身内にも勘違いされてしまいかねないけれども、そうではない。(有無を言わさぬ二元論であればこっちに分類されかねない気もするが、)特別そのような政治思想を持っているわけではない。(政治についてさっぱりすぎるので、選択の地平にも立てていない。それで言うならある意味で無政府状態。)

このTシャツがこの強い言葉掲げているのが面白くなってしまい買ってしまった。このTシャツは、薄っぺらくて、色あせていて、なによりチープだった。「ハンケンリョク ムセイフシュギ」が、薄っぺらくて、色あせていて、なによりチープだった。それが面白くなってしまった。

服は自らの思想信条を表すために使われる無類のメディアだ。ことTシャツは、若者のムーブメントの象徴を宿して、ある時代のその最前線にいた。平和への願いを、反戦への祈りを、そのアイコンを胸元に、言葉の代わりに雄弁に語る気高いシンボルとしてそこにあった。

それらの華々しい理想は現在どうなったのかというと、脱臭されきった状態で「ファッション」や消費サイクルに投下されるの推進剤に成り果ててしまっている。ピースマークもあのころの気高い思想を持たない記号として、(なんならダサいとされて着られることもないままに、)大量に刷られてここにある。

その何度も見てきた「ファッション」の残酷さというかなんというか、このTシャツは気持ちいほど単純にその構図を一枚で表現している。「ハンケンリョク ムセイフシュギ」なんて強い言葉、すぐさま消費されてしまうだろう。現に消費されてうちにある。まさしくの「反逆の神話」。美しい具体例だと思う。言葉の意味が死んでいるわけではない。生かそうと思えば強いメッセージを発する。殺そうと思えば容易く殺せてしまう。

この服を着た自分を人が見れば、順当にそういう思想の人なんだろうなとか思うかもしれない(こんなアホっぽいプリントでそう思う人なんて少ないかもしれないけれども)。が、実態は違う。表に出ていること即ち真ではないという自分だけが楽しめる「露出狂の快楽」も一種あるからこの服を着ている(→服は違和感を生み、問いかける 青木のジャージ)。服のメッセージ=着用者のメッセージという単純な「自己表現」に還元させるのは面白くない。だから逆立ちして着るのが楽しい。表層そのままに情報を受け取る深層知らずのインスタ慣れは個人的には面白くない。

「ファッション」における服の消費・需要のされ方や、「自己表現」だとかを転倒させるような気分でこの服を着ている。ねじ曲がっているけれども、この服がめちゃくちゃ愛おしい。

『ViVi』 × 自民党

もちろん、いまなおTシャツはメディアとして日常において最大限のパワーを持っている。生み出すに容易いモノであるがゆえに、クラスの団結から政党支持まで幅広い領域で、そのくせ恐ろしく雄弁にものを語り、その猛威をふるっている。現にその力を使おうとした企みを見たじゃないか。

講談社発刊の女性ファッション雑誌『ViVi(ヴィヴィ)』が自民党とのタイアップ広告を発表した。この件について、政治について恥ずかしながら疎い自分でも違和感を感じたので、なにより「服」も関係する話題でもあるので少しだけ。的外れかもしれないけれども、少しだけ。(別にこの政党が全くの悪党だとは思って言っているわけではないので悪しからず。)

いや、ミュージシャンは政治的発言を控えろ!のようなぱっぱらぱーな発言をここでしたいわけではない。ファッション誌こそもっと政治を取り上げるべきだ。若年層を巻き込んで政治を意識させること自体は大いに素晴らしいと思う。若い女性と強い接点のあるメディアがそのような問題提起したのであれば、この国の大人も捨てたもんじゃない、といった話だったと思う。ただ今回に関して。特定政党のプロパガンダさすなと。

布数グラムのパワー

メッセージTシャツにプリントされた希望の言葉。この言葉に否定の余地はない。もちろん否定したいわけではない。この言葉たちは自分も信じたいような美しい言葉だ。だが、ここに来て、拒否=悪役に必然的になってしまうような仕組みが作動するかと思う。重ねて言うが、内容は素晴らしい。だからこそ、強制共感というか、抗いなく飲み込めと言うような強制力が発生している。そこでひとたび受け入れてみると、同時に左袖にプリントされたシンボル(どこぞの腕章のよう)も受け入れたかのような格好になっている。隠れ蓑。否定したら悪者、受け入れたらおまけ付きの格好になる。ここがひどく狡い。

そのシンボルは一枚の服としてこの言葉と同時にあることで、そのメッセージ=シンボルが持つメッセージと錯覚するような小細工が無意識下で働く。この服のこの言葉に対する「いいね!」が、強引にそのシンボル=政党とイコールで取り結ばれてしまう。そうなると、錯覚して順序が逆転してしまう吊り橋効果のようなものが発生する。結果ありきの逆算。強制再生産。その言葉に対する「いいね!」が政党に対する「いいね!」へと巧妙にすり替わる。すり替えられる。少なくとも、外からはそう見えてしまう。そして、知らず知らずその着ている人の考え方にも遠からず影響する。

言わずもがな、これを着た時点で歩く広告塔が完成する。服という身近すぎる存在は容易くあるくせに、恐ろしく雄弁。自分の意図を反しておしゃべりになる(だから面白いけれども)。もちろん、受け手は政党の言葉として受け取るはず。着る人が着る人であれば、その人が着ているならと無批判になり、よりスムーズに受け取る。生々しい拡散力。

布数グラム。Tシャツなんて布数グラムの構築物にすぎない。しかし、その価値は、それが持つ力は単なる布数グラムに止まらない。一枚のTシャツにかたちを変えるだけで、とにかく恐ろしいほど大きな力、大きな価値を持つようになる。服を侮ってはいけないと思っている(思い込んでいる)。

なんだか...気にくわない

ところで「わたしたちの時代がやってくる!」。この「わたしたち」は誰か?この言葉はこの女性たちに向いた言葉ではない。ニコニコとした若い女性が向くその先にいる誰かのためにある言葉なのだろう。その誰かが「わたしたち」なんだろう、と思っている。うら若き奴隷に自らを讃え喜ばせる踊りをさせているジャバ・ザ・ハットを思い出した。他意はない。

とにかく、なんだかやり方が気にくわない。公職選挙法がどの範囲まで有効なものかだとか、なんなのかとかは正直わからない。とても恥ずかしい。倫理や正義だとか外の基準を並べるのも趣味じゃないから言う気はないが、自分の感覚として気持ちがよくない。

ハフポスト日本版の取材に対し、講談社は「若い女性が現代の社会的な関心事について自由な意見を表明する場を提供したい」と企画の意図を説明。

「政治的な背景や意図はまったくない」とコメントした
(HUFFPOST日本版、『「ViVi」が自民党とコラボした理由は? 講談社が説明「政治的な背景や意図はまったくない」』より引用)


そのうえでBuzzFeed Newsは、追加で広報室に取材した。企画の経緯については回答できないという。また、他党とのキャンペーンは予定していないという。

政治的背景や意図がないなか、なぜ自民党だけを選んだのか、という質問に対しても、コメントはなかった
(BuzzFeed Japan、『「政治的意図はない」ViViと自民党がコラボ? その狙いは』より引用)

今回の企画の意図や、社会からの反応もある程度予想できたはずで、編集者であればこのタイアップが出ることの反響も分かって腹をくくっているべきではないか? そのくらいの気骨を持ってこのタイアップを受けたのなら、それはそれで編集部の意思を感じるが、この釈明からはそのような思いの一つも見えてこない。やるなら、覚悟を持ってやって欲しかった。

タイアップの広告費で講談社が手にしたものは金額では大きかったが、『ViVi』読者との関係に泥を塗ってしまった罪は重い。

大げさに聞こえるかもしれないけど、大きな出版社が、大きな資金力を持つ大きな政党と組むことはプロパガンダと言われても仕方がない。
(軍地彩弓、HUFFPOST日本版、ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。

なんかあれだな。メディアの末期症状を見た記念日になりそうだ。
自民党とViViがタイアップする時代。
怒りを通り越して恐怖だなこれは。

(sayumi gunji(@sgunji)の公式Twitterから)

自分の低水準の読解力が恨めしく情けないのですが、特定政党とのみタイアップしているにも関わらず、「政治的な背景や意図がない」というのはどういう意味か賢い人教えて下さい。

「社会的な関心事について自由な意見を表明する場を提供したい」のであれば、どうあれ選択の余地、余地が必要だっただろう。どんなに関与が薄かろうが、前提として自民党を経由する場である時点で狭めている。その意志があったなら、あのマークが入っている時点でどこか趣旨とずれることもわかるだろう。キャンペーンも「#自民党2019」はちょっと考えればわかるって。たまに法に引っかかってないPRだからセーフとは言ってる人いるけれども、「政治的な背景や意図がない」キャンペーンなんだからそれは的外れフォローだろ。今回は特定政党を応援するキャンペーンじゃないと言っているのだから。やり方と言い草が悪すぎる。(もし仮にこれが法的にセーフだと万歩譲って、今後政治は政治方針ではなく財力の勝負になってしまうかもしれない。)だとかなんとか、わからないくせして物言いするから混乱している。

この件に関わらず最近の世の中、まだまとまらない感覚論なんですけれども、中身とかじゃなく印象が、印象だけが大事になってきてませんか?実質、内面性、人、とかすっ飛ばして、なんだか局限化して印象よければ全て不問、なんなら問わせないみたいな空気になってる気がする。全てを無批判にする無敵のベール。あの「ぬくさ」が最近ぼんやり怖い。もう少し時間をもってこの「ぬくさ」のことを考えてみたい。

急にダジャレ思いついた。voteとtee-shirt組み合わせて「votee 」。誰かそんなTシャツつくってくれないかなだとか。

みんなはどんな世の中にしたい?自分の想いを #votee #メッセージTシャツプレゼント のハッシュタグ2つをつけてツイートすると、メッセージTシャツがもらえるよ!◯◯公式Twitter(@◯◯)からDMにて当選連絡をするのでフォローをお忘れなく♡ 

とか言って。

服は武器になる 同時に鎧にもなる

服がいかに恐ろしい武器なのか改めて思い知った。服は政治的にも容易く軽く利用されてしまう。容易い、なんと容易い。服の力をそれなりに過大評価してきたつもりなのに、それでもなお、甘く見積もっていたらしい。

服は恐ろしい武器にもなる。それは翻って、希望として、自分の意志を守る鎧にもなるということだと思う。服と自分を反響させ合って、再生産させて、増幅させたそのイメージを自らの内にぶち込むことができる。ポジティブなイメージを自分に植え付ける。(言い方は悪いが自己催眠装置のような。)服は自らの意志を守るシェルターのようになる。

ただ、自分の信念を守るためにその服を着ているとしても、メッセージは勝手にだだ漏れて漂流していくもの。不快感を覚える人もいるかもしれない。意識してもしすぎることはないが、そういうモノだという認識は忘れないようにしたい。

外に向かってメッセージを放つと同時に内に向けてもメッセージを放つ。服とはそういうものだと思う。服は誰かのために着るものというだけでなく、自分のために着るものでもある。社会的であり個人的な営み。これだけ身近なのに、これだけ力強い。この布数グラムの構築物にはとてつもない力がある。だからこんなに面白い。かえって戯れたくなってしまう。とにかく、前にも増して意識していきたい。

一種躁的な状態になり、一気によくわからないままに書いてみたが、なんのことはなくしばらくしたら引き潮に飲まれる。飲まれてしまう。ただ、今日限りにさすがにもう少し政治について知るように、考えるようにしようと思う。

勢い余って前から気になっていた本を買ってきた(しまった。雑魚の財布にはなかなか手痛い)ので、これも一つのきっかけにじわじわと考えようと思う。

(2019/06/14/11:00、軍地さんのコメントの引用等一部追記)


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