見出し画像

【#2000字のホラー】『微睡/まどろみ』

都内の高校に美術教師として勤務している私は、この日の放課後、廊下で後ろから声を掛けられた。
「先生、話があるんですけど」
振り向くと三年の吉崎美咲が、ひとり所在なさげに立っている。
取巻きに囲まれて堂々としている、いつもの彼女とは別人に見える。
「え..どうかしたの?」
私がそう返すと、彼女は少し周りを見てから小声で答えた。
「あの..二人きりでお話できませんか?」
「え?」
私は逡巡した。
吉崎美咲と私に接点はあっただろうか?..
担任のクラスを持たない私に一体、何の話があるのか?
言葉を返さない私に彼女は、一瞬目を伏せてから続けた。
「石田先生に聞いて欲しい話があるんです」
意図が解らぬ私は、仕方なく答えた。
「ああ、そう..じゃあ、一緒に美術準備室まで来て」
吉崎美咲は声を出さずに頷いた。
歩き出した私の後ろに彼女が続く。

私と彼女は無言のまま、校舎二階の端にある美術準備室まで歩いた。そして私は部屋の鍵を開け、中に入る様、彼女を促した。

首を竦める様に部屋の中に入る彼女の後ろ姿を見た私は、無意識に辺りを見回し、人の目が無い事を確認した。
後ろめたい事など無いのだが..
そう思って、苦笑する。

私は部屋に入ると、隅に立て掛けてある折り畳みの椅子を広げて置き、自分の椅子に座ってから、立っている彼女に声を掛けた。
「どうぞ、座って」
「はい」
吉崎美咲は椅子に座り、ゆっくり脚を組んだ。
そして綺麗に整った大人びた顔を私に向けて、さっきまでと違う、いつもの自信に満ちた態度で、躊躇せずに喋り始めた。
「何となくですけど、先生なら解ってくれそうな気がするんです」
私は少し首を傾げた。
「..えっと、何の話?」
「はい..私の夢に昔の絵画みたいな風景が出てくるんです」
「夢?」
私の問いかけに彼女はうっとりした表情を見せる。
「いえ、夢というか、ウトウトしてる時にだけ現れるんです。夢と現実の間に存在する世界みたいな感じです」

これまで彼女に感じていた違和感が表層化して、私は困惑した。
この子は何を言い出したのだろうか?
思わず、まじまじとその顔を見つめる。
すると吉崎美咲は私を射ぬく様な目つきになり言い放った。
「私、あの場所に行きたいんです!」

熱に浮かされている様なこの顔つき..
まるで何かに取り憑かれてるみたいだ。

「ちょっと待てよ。そんな事、僕に言われても困るん..」

吉崎美咲は、私の言葉を遮り、身体を乗り出した。

「先生!私、あの場所に行きます!」

そして彼女は、おもむろに椅子から立ち上がり、踵をかえして部屋を後にした。

何が..どうしたんだ..

一人残された部屋で私は途方に暮れながら考えた。
一体、彼女は何を伝えたかったのだろう?

私はどうする事も出来ず、暫くの間、座ったまま時間が過ぎるのを待つしかなかった。


その夜、独り暮らしのアパートに帰宅した私は吉崎美咲の事が気になっていたが、妙な眠気を感じてベッドに横たわった。
うつらうつらと意識が揺らいでいく..

次の瞬間..

私の脳裏、いや、瞼の裏側にモノクロの風景が浮かんできた。
これが吉崎美咲の言っていた世界か..
吸い込まれそうな程、美しい静けさに包まれた世界だ。

私はうっとりした気分で、その世界を見つめる。
するとそこに半透明の人影が見えた。

あれは吉崎美咲だ..
彼女はもうこの世界に足を踏み入れたのか?

いや、この世界は一体、何なのだろう?

完璧な平和を具現化した様な、幸せに満ち溢れた世界。
私はそれを掴もうとして、真っ直ぐ手を伸ばした。
だが、途端にその世界は砂絵の様にゆっくりと崩れだした..
そして、一気に邪悪な気配がその世界に充満した!
ここは危険だ!
全てを奪う、幻の世界だ!
マボロシなのだ!
「そこにいてはいけない!」
そう私は叫んだ!
逃げなさい!


気がつくと私は学校の廊下を歩いていた..

「先生、話があるんですけど」
振り向くと、薄暗い中、吉崎美咲が不貞腐れた顔で私を睨んでいる。
「え..どうかしたの?」
彼女が続ける。
「先生!私の描いた絵、なんで選ばれなかったんですか!」
「…何?」
「この前のコンクールの絵ですよ!私が美術部じゃないからですか!」

ああ..
そういえば、私は校内のコンクールで、そこそこ上手く描けている彼女の作品ではなく、顧問を務める美術部の生徒の絵を選出した。
美術部員の作品の方が技術的に優れていたから選んだのだ。
それ以上でも以下でもない。
ただ、それだけの話。
だが、それだけの事で吉崎美咲の心の中には、恐ろしい情念渦巻く復讐の世界が造り出されているのだ!

私は恐怖を感じて、後退り、彼女から距離を取った。
たかが絵、でも
されど絵、でもない。
自分を認めぬ者への頑強な怒りと憎しみ。
吉崎美咲は噛みつかんばかりの表情で私に迫ってくる。
私は恐怖のあまり彼女に背を向けた。

そして、目の前に広がる暗闇に向かって走り出した!

【終】

サポートされたいなぁ..