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体験、経験

 どんな体験をするのか、どんな経験をするのか、それは人それぞれ違うことだと思う。

 ただ体験し、体感するだけでは何の血肉にもならず、そこから何を学び、何を成すために何をするのか。その先のほうがむしろ、大切なことだと思う。

 生きていく時間の流れに限りがある以上、すべてのことを経験することなどできはしないであろう。やったことがある、なんてものは、到底経験なんて呼べるものではないから。

 そうして、限りがあるからこそ、何を選び、何を捨て、自分に還元するために活かしていくか。その取捨選択は重要なことだ。

 それをする、しない、は人の選択である以上、その善し悪しを決められるのは自分だけだとも思う。もちろん、はたから見て、どうなの? ということは多分にあるとは思う。

 あるとは思う、けれど、それを否定する必要もないと思う。

 何でこれをしなかったの?
 こんなすてきなことがあるのにもったいない。
 何でそんなことをしているのかわからない。
 そんなことよりもっといいことを自分はしている。

 どれも、これも、必要のない言葉だ。

 する、しない、が個人の選択である以上、そこに優劣はないからだ。その人が必要なもの、ことを選び、学んでいるのだから。

 子どもにおいて言えば、身近な大人たちの影響は甚だしいものであろうし、地域の関係性の中でうまくいかないことや信じこんでしまうこともあるだろうからこそ、どんな言葉を伝えるか、行動を見せるか、は大切なこと。それゆえに、その選択は本当に、その子のためになるのか、というのは難しいものではある。

 ただ、どちらにしても、
 
 別の何かを否定しなければ確立できないものなら、たいしたものではない。

 自分はこんなことをやっている、何でみんなはしないの? そんなところよりも、もっといいものを知っているし、やっている。なんでみんなはそんなことしているの?

 そんなふうに、別の何かを否定しなければ保てない自己なら、その経験だけでは自信も自身も持てない程度のものなのであろう、と思ってしまう。

 本当にそれを持てる人なら、あえてそんなことしなくても、その経験が必要で大切なものだと確信しているから。相手を否定しなくても、自分を確立できている。

 体験や経験、なんてものに踊らされず、本当に血肉になるものをちゃんとした経験で、学び、活かしていけるか。

 意識、していきたい。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。