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拝啓、春。

春になりました。
だから手紙を書こうと思います。


遠い南の地では桜が満開だそうです。
あなたのいる場所には桜は咲いているのでしょうか。

僕がこの町に越してきたのは夏の始まりで、まだどこに桜が咲くのかはわかりません。ただ、この前、家から少し離れた場所に桜並木を見つけました。見渡してもまだ蕾ばかりでしたが、楽しげに連なる提灯を見上げて懐かしい気持ちになりました。きっとあの町にもまた提灯が並んでいるんでしょう。

陸橋を越えて公園に出て、小さな寺の横をすり抜けた先にある、神社の向かい側。野球場とテニスコートを縁取るようなソメイヨシノ達に提灯が並走して、花と人と夜を淡く照らし出す、あの並木道です。
覚えていますか?
降りしきる花びらの中、レジャーシートの四隅に荷物を置いて、弁当箱を広げてお花見をした日のこと。
隣で笑っていたあなたを僕は覚えています。
小さな両手いっぱいに集めた花びらを見せたときの柔らかな笑顔を、ようやく思い出せるようになりました。

僕はあなたが好きでした。
当たり前すぎて言葉にしなかったことを今も悔やんでいますが、たぶんあなたは知っていましたよね。
あなたは人の気持ちを汲み取ることが羨むほどに上手で、だから僕はずっとあなたのような人間になりたくてなれなくて、もがきながら歩いてきました。

覚えていますか?
あの町を、あの並木道を、僕を覚えていますか。
僕は覚えています。そして少しずつ思い出せなくなっていることにも気付いています。
だからこうして手紙を書くことにしました。

春になりました。
僕は大人になりました。
あなたにはまだ会えないみたいです。

春になりました。
週末には桜が満開だそうです。
あなたのいる場所からも桜は見えるのでしょうか。

敬具



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