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多様な社会を「愕然」という言葉で覆わないために

これまで取材を通し、労働者として、難民として、様々な形で日本に暮らす外国から来た方々と出会ってきました。その出会いごとに得てきた実感と共に、11月24日の日経新聞に掲載された、沢木耕太郎さんの下記の文章について感じたことを書きたいと思います。

全文を読んだ上で考えることをお勧めします。読める環境にない方々にも届くよう、一部ですが引用させて頂きます。

(田園調布駅に向かうバスで)私は残った乗客を見回し、あらためてその外国人率の高さに茫然(ぼうぜん)としてしまった。
(夜のパリの車両で)非白人に対する警戒心と防御本能のようなものが発動されているように感じられるのだ。そしてそれを敏感に感受して、非白人の側にも微(かす)かな緊張が生まれる。
去年、十分な論議も尽くされないまま「出入国管理法改正案」という名の実質的な「移民法」が閣議決定されてしまったが、それは、ドイツにおけるトルコ移民のように何世代もあとの社会問題を引き起こす前に、そうした緊張に耐えられなくなった日本の都市住民による思いもよらない暴発を招くという結果をもたらしたりしないのだろうか。
遠ざかるバスを見送りながら、私の脳裏にひとつの光景が浮かんだ。

バスに残っていた二人の日本人が途中の停留所で降り、運転手がバックミラーでちらりと車内を見る。すると、そこには外国人しか乗っていないことに気がつき、愕然(がくぜん)とする……。


差別やヘイトはいつもこうして、「〇〇人」「〇〇民族」という大きな主語で相手をくくり、まるでのっぺらぼうの集団のように語るところから生まれ、エスカレートしていくように思います。一人一人の表情に想いを至らせる、想像力がそこには欠けているからです。

その上で、外国人の方々をひとくくりにして、彼らが日本の人々に緊張を強いていくかのような表現には違和感を持ちました。違和感、というよりも、危機感、といった方が適切かもしれません。

ちなみにこの「緊張」は、具体的なエビデンスで解いていくことができます。なぜなら、外国人の人口が増えているにも関わらず、外国人による犯罪の検挙件数は減っているという警察のデータがすでに公表されているからです。下記のページの80ページを参照してみて下さい。

ファクトに基づかないまま、不安を煽るような表現は、更なる分断や偏見を生みかねません。

文中では「出入国管理法改正案」についても触れられていますが、外国人の労働者の方々に今、どれほど私たちの日常が支えられているのかという視点は欠かせないはずです。

この改正案は事実上の「移民政策」といわれ、日本の人手不足を補うために推し進められた改正案ですが、労働者として日本に来られた方々の労働環境を守るための制度や、家族を呼び寄せたりより長く暮らしていくための仕組みは十分に整わないまま施行されました。

今、コンビニのように私たちの目に触れやすい場だけではなく、工場や夜勤の現場など、私たちが日常的に目にすることがなく、過酷で人手が足りない仕事を多くの外国出身の方々が担っています。

ところがいまだに日本の政策は、外国人の方々を労働者として守る、という視点ではなく、「管理する」ことに力点を置いています。中でも入管施設での上限のない収容は、国連から「拷問にあたる」として再三改善するよう勧告を受けています。

もちろん、異なる文化に出会ったとき、人は戸惑うことも、身構えることもあるかもしれません。けれども未知のものに触れることが「恐い」だけのことではないと、私はこれまでの取材で出会った方々から教えてもらってきました。互いの文化の中で培われてきた料理を一緒に囲んでいるとき、食卓での何気ない話題で会話が弾むのです。

大切なのは具体的な知識も積み重ねつつ、自然体で向き合っていくことなのではないでしょう。そしてこうして偏見や差別につながりかねない言葉を見過ごさず、真正面から向き合っていくことなのでしょう。

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