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好奇心の塊の息子と遊び場に行って疲弊した私が復活するまでの話と思い出話

私はずっと自己肯定感が低いと思っていたけど、実はそんなこともないなと気づいてきた。少なくとも、最近の私は「私って最低だ」とか「こんなこともできない私なんて誰にも必要とされていない」とかそういう思いを持っていない。それどころか、気分が沈んで体にも疲労がたまっているときにじたばた足掻く自分を、結構やるじゃんと肯定している。

振り返れば学生の頃は思春期に囚われていたこともあり、自分のことを否定してみたり、「本当の私が失われる」というように自分の一部を持ち上げたりしていた。そのうち気づいた。あれもこれも、自分の好きなところも嫌いなところも愚かなところも誇らしいところも、全部本当の私だと。自分が認めたいところばかりの自分なんて、それこそ本当じゃない。

でもあの頃すでに、私には落ち込んでいるときにじたばた足掻くという性質が備わっていた。それを肯定的に実感できていなかっただけで。

たとえば中学生の頃、「この世界は空虚だ」「誰も私のことなんて分かってくれない」と、まあ、ある意味順調な成長過程の中で、私は唐突にペットショップでインコとその飼育用品一式を買い求め、帰宅した。私の家族はこのインコだけ、という意思表示でもあった。初めて恒温動物を飼う(それまでザリガニや亀は飼ったことがあった)ということで、その手のひらに収まる温かみに心癒され、ただ大層噛み癖がついてしまって指を噛まれては痛い思いをした。(インコは高校卒業まで育てて、大学で県外に行くにあたって祖父母に預かってもらっている間に亡くなった。セキセイインコの寿命は5~10年だそうだから、私の勝手で迎え入れられた後しっかり天寿を全うしてくれたと思う)

高校生の頃は突然飛び込みでバイトを始めた。求人募集のチラシも何も出ていない店に入って行って、バイトしたいのですがと店長に伝えるという謎の行動力を発揮した。たぶんあの頃も家族のことやアイデンティティについて悶々と悩んでいて、何か思い切って環境を変えたかったのだ。

考えなしではあるし、乱暴な足掻き方ではあるけれど、きっと何もしないで沈んでいくよりは救いがあった。そう思えるようになったのはもう少しあとの話で、当時は自己嫌悪と本当の自分探しの荒れ狂う嵐の中にいた。

話は急にごく最近のことになる。

1歳を迎えた息子は歩き始めたことにより機動力が増し、持ち前の好奇心旺盛さと人への興味の強さによって行く場所行く場所で他の子に近寄ってはおもちゃに手を伸ばしたり触ろうとしたりするようになった。たまたま行く場所に年上の子が多かったのか、おままごとで遊ぶ2,3歳の子に近寄ると、「これも○○の!」「こないで」と追い払われてしまう。息子は何を言われているか分からないので果敢に近寄ろうとする。接触する前には私が抱っこして少し距離をおくのだけど、ある時にはその前にどんと押されて後ろに転んだり、しゃがんだ息子の服を掴んで引っ張られたりした。

このやりとりは子育ての諸先輩方にとっては「あるある」なのだと思うが、まだ1年ばかりしか親業をやっていない私には結構こたえた。まず、息子の気持ちに寄り添う私がいて、「できるだけ息子の関心を遮らないであげたい」と思う。ただ、その結果他の子の遊びの邪魔をするのはよくないので、制止しなければと思うし、相手の親の目も気になる。この制止のタイミングが難しくて、制止してから「もっと早く遠ざけるべきだったか?」と悩むことが多かった。そしてさらに、相手の子の言葉に狼狽える私もいて、発達の過程なのは分かっているし、むしろ「これは自分のもの!」「邪魔されたくない!」と主張できることはよいことだと思っていても、「そんな言い方しなくても…」「傷つく…(私が)」「息子はこんな相手を押すような子にはしたくない」などの勝手な感想がぶわーっと湧き起こる。厄介だ。

そしてまた、上記のような心の中の葛藤や逡巡が1時間遊んでいれば軽く10回以上はあるわけで、心も疲れるし身体も疲れる(10kg近い息子を持ち上げて移動するのを繰り返すので)。無言でならまだしも、なんとなく息子や相手に語り掛けたり謝ったりするような言葉をかけながらなので、作業にもなりきらない。

あ~ごめんね! (息子)、お兄ちゃんいまトーマスで遊んでるんだって、(息子)はこっちのパトカーで遊んでようか?

はーい、こっち来ようか~! ごめんね、このスプーン、ちょっと…(握りしめていて取ろうとすると怒って泣く)ちょっと待ってね、(取ってギャン泣きされながら)はい、返すね~!

みたいなやりとりを延々繰り返していて、結果私はすごく疲れてしまった。一番わかってほしい夫は、私と性格が違うのであんまりこういう気疲れはしないらしく、話してもピンとこないようだった。(こういうことはよくある)

息子を外に連れて行って誰かと触れ合わせたいけれど、そうするとこういうやりとりで疲弊する。息子にとってもいつもいつも寸止めのような状態になるし、時には押されたり奪われたりして泣いて、楽しいんだろうか? そもそも今の誰にでも近寄って行ってぐいぐい自分の気になるものに手を伸ばす息子はよくある成長の過程にいるのだろうか? そんな思いが膨らんで、このままではまずいぞ、と私の心の中の警鐘が鳴る。こうなると私の持前の「足掻き」が発動するのだ。私の心を救うために足掻かなくては、と。

地区の保健師さんに相談の予約の電話をし、数か月前から利用しているオンラインカウンセリングを心の支えにし、支援センターの先生方に話すことを決め、自治体の子育て支援施設の相談員さんに相談をした。とにかく外に吐き出す。そして肯定してもらう。同じことを言って、同じことを言われるので構わない。それが必要なのだ。

同じこと、と言ってもその人の立場や経験によって話し方は違う。何度も自分の悩みを言語化しているうちに、それ自体もそこまで思い詰める内容に思えなくなってきて、どんどん軽くなっていった。

短期間でばーっと吐き出し、あられのように「大丈夫」「お互いさまよ」「順調な発達過程」「お母さんがつらいときは無理して外に出なくていいよ」「人が好きなのね」というような言葉を浴びて、私は心を持ち直した。驚いたのは、私が相談したのは息子の様子、私の対応のことだったのに、また同じような場面に直面したとき、以前持ってしまった相手の子に対する悪感情も和らいでいたことだ。あまり心の奥深くに入れずに、さらーっと対処できるようになった。私はタバコを吸わないけれど、「ふかす」ってこんな感じだろうか、と脈絡もなく思った。

ここまで書いてきて、わざわざ昔の思い出話まで持ち出したけれど、要は、落ち込んだときは外に発散するのが私にとっては一番の薬という話だったな、と気づいた。「足掻く」でまとめなくても当たり前の話だったな、と思うと少し恥ずかしい。でも、このnote自体も私のうまくいったりいかなかったりする人生の中での足掻きの一つでもあるのだから、この「実は単純な話でした」という結論に達するためには必要だった、と肯定して締める。今はちょうど自己肯定感が高まっているので。30数年生きているのに未だにどこか生き慣れないところがある私は、そうやってどうにかこうにか生きていくのだ。

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