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平和主義の徳川慶喜と渋沢栄一

2021年の大河ドラマ「青天に衝け」の主要キャストが発表された。主人公の渋沢栄一と切ってもきれない人物として徳川慶喜が登場し、彼を草なぎ剛さんが演じるとのこと。

私は徳川慶喜という人物がとっても好きだ。顔がかっこいいというのが大前提だけれど、彼ほど徳川の利益よりも国益(天皇家への忠誠心)を最も考えた歴代将軍はいなかったと断言できるから。


一橋慶喜の名で知られた慶喜は、生まれは水戸家。彼は生家から一橋家に養子になっている。

「水戸学」という天皇を尊ぶ学問の祖で育った彼は、当然のことながら天皇に対しての忠誠心が深い。母は有栖川宮家出身で、毎年正月になると、彼女を高座に座らせ、父・斉昭を含む家族全員が頭を下げる習慣があった。

ときの天皇、孝明天皇(明治天皇の父)からの信頼も厚かった。一方でそれゆえに、徳川家からは危ない人物として評判はよくなかった。なぜ徳川を第一に考えないのかと思われていた。

しかも父・斉昭は、大奥の女性にすぐ手をだすことで有名で、そちらの評判もよろしくない。慶喜自身は大奥に否定的な見解をもっていたため、将軍になったときには、非難が相次いだ。結果的には一度も江戸城には入城しなかった唯一の将軍になる。


彼は将軍になどなりたくなかった。キリリとした端正な顔立ちで、自分を強く律することができ、頭もよく切れた。それゆえに父から大きな期待を受け、その期待の輪が広がり、結果一橋家に養子入りし、15代将軍になってしまった。

人が上に登りたい願望をもつときには、必ず野心がいる。そしてその野心とは大抵は「コンプレックス」から生じるもの。

でも彼にはコンプレックスなどない。当時の代表的なコンプレックスといえば、「出自」だろう。母が側室かどうか、これはどの家でも大きな違いだ。

でも彼は正室から生まれ、しかも徳川家より格上の有栖川宮家の血を引いている。徳川家のどの面々と比べても、飛び抜けていた。


そんな彼が将軍になった幕末は、日本史上でも激動の時代だ。むしろ幕末という言葉は、慶喜が作ったといっても過言ではない。幕府の幕を下ろしたのは、他ならず慶喜なのだから。


これだけ天皇家に対して忠誠心を持っていた慶喜だが、頭が切れるゆえに相談よりも独断が多く、側近たちはなかなかついて来ない一面もあった。

のちに徳川家からも「徳川を売った男」として白い目でみられた大政奉還は、東京を火の海から守るために行ったことだが、決定事項をポンと話す慶喜に動揺する人も多くいたはずだ。


彼が将軍職についたときに、これまで信頼関係で結ばれていた孝明天皇が崩御したことで、風向きが変わった。皇族や公家の中にいた「反徳川」が手を結び、明治天皇をバックアップし、気がついたら慶喜は朝敵になっていた。

「平和な日本を作る」という思想は一致していたが、徳川が邪魔で仕方がなかった新政府は、慶喜を時代から葬ることにする。


鳥羽伏見の戦いで、味方を置いて東京へ戻った「敵前逃亡」は、彼の評価を思いっきり下げた出来事だ。後世もこの理由を一切口にせず、東京へ戻った後は、ただひたすらに蟄居していた慶喜だが、錦の御旗に対しての攻撃をやめたい。戦いを大きくすることなく、穏便に次の時代へ移行させたい思いがあったのではと、新しい研究では評価されている。


これは余談だが、慶喜は大政奉還を行っても、自分は政治の世界に身をおくものだと思っていたらしい。なぜなら、新政府の中にまつりごとを経験した人物はおらず、自分抜きに政治を進められるはずがないと思っていたという。だからこそ、大政奉還で幕府は返納するけれど、今後は手を取り合って新しい日本を作っていくつもりだったと言われている。


結果はみなさんご存知のとおり、将軍職を退いた彼は、その後表舞台に出てくることはない。趣味に生き、特にカメラを楽しんでいた。朝敵の汚名は返上され、爵位を受けたものの、明治天皇に謁見できたのは明治30年のことだった。ちなみに慶喜の正室・美賀子は昭憲皇太后(明治天皇の正室)の姉にあたる。


幕末に関わった人たちとの交流は一切絶っていた。絶たれた側からすると、なんて不義理な元将軍とも思うだろうが、慶喜からすると、一時は朝敵にもなった自分と関わることは相手のためにはならないだろうという配慮もあった。

でもそんな中で数少ない交流者が、渋沢栄一だった。渋沢は慶喜の死後も、彼の孫をたまに家に招いては面倒をみる…などもしていた。


渋沢栄一は、当初は倒幕派で横浜を焼き討ちにする計画すらもっていた人物。それが平岡に声をかけられ、軽い気持ちで一橋家で働いたら、あれよあれよと気がつくと将軍の幕臣になっていたというこちらも面白い運命。

渋沢自身、一時は大蔵省で勤めていたものの、政治の世界よりは、ビジネスの世界に生きた人物だった。

渋沢が日本にもたらした「資本主義」は、どれもヨーロッパで見たものであり、これは徳川家の命令でパリ万博にいったことがきっかけと言われている。

すなわち、徳川慶喜と渋沢栄一が出会わなければ、今の日本は生まれなかった。

お互いがそれを肌で理解していたのかは知らないが、新しい日本を作った二人の男は、強い友情で繋がっていた。

明治26年からはおよそ25年かけて、渋沢は慶喜の伝記を執筆する。全ては旧主である慶喜の汚名返上のために。

卑怯な男だとか、冷たい男だとか言われたい放題の慶喜公だが、今回の大河ドラマでは、彼がいかに先を見据えた判断を冷静に下してきたのかがクローズアップされると嬉しい。



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