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言語は文明を作る

 我らが友権後道男は人文学最大の天才であった。権後は小学生であらゆる国の言語をマスターし、中学を卒業するまでには世界の名著名作をほとんど読み尽くしていた。だが、それゆえなのか権後は高校に入った頃には人文学そのものを軽蔑するようになってしまった。権後はプラトンやソポクレスから大江健三郎に至るまでの古今東西の人文学の偉人たちを無能と罵った。彼によればそれはこれら偉人たちが自分の言葉を作らず、ただ自らの属する共同体の言語でものを書いたからだである。学生の時権後はジェイムス・ジョイスを文学を変えた天才だと褒めたたえる教授をせせら笑い、自分の言語も作れない人間の何処が天才なんだと言い放った。権後は真の天才とは自分の言語を作り、そして言語を体系化できるものと考えていた。また厳後は化学には無数の天才がいるが、人文学で名を残しているものに天才など一人もいないと主張していた。もし天才がいるとすればと彼は各言語を作ったものこそ天才である。しかしその天才たちの大半は名前すら伝わっていないのだと。

「つまり君らが褒め称える哲学者や文学者、そして文筆を生業としている全ての人間は皆自分の使用する言語を作った天才たちの言葉を借用しているに過ぎないのだ。彼らが高邁だ深淵だと自負するその思考だって天才たちの言葉で考えられたものだ。ああ!哀れなる天才たちよ。本来讃えられるべきはこれら泥棒たちでなくて彼らのような天才であるべきなのに」

 権後は学生時代に我々に向かってこんな事を言った事がある。我々は彼の発言に対して次のように反論した。

「一見君の言っている事は正しいように思える。だが言語というのはたった一人で作れるものではなく、共同体によって、体制によって、そしてそれぞれの時代に生きた無数の人々によって使われ変化して来たものだ。それに君は今の発言を日本語でしている。という事は君もまた自分が軽蔑する人間と同じではないか?」

 我々の意見に権後は笑みを浮かべて答えた。

「ご指摘はごもっとも。確かに僕は日本語を使用し日本語のある場所に生きている。だがそれはあくまで僕自身の言語を作るまでのことだ。いいかい?君たちには正直に話すが今僕は僕オリジナルの言語を作ろうとしている。ハッキリ言ってこれは革命だよ。僕の言語ができたら政治経済文化全てに変化が起こるはずだ。予告しておくよ。いいかい。言語というのは文明の根源なのだよ。僕は近いうちに新しい言語を発表する。その時を楽しみに待っていてくれ」


 その予告通り権後は大学を卒業した後、院には進まず、自宅に篭ってひたすら自らの言語を作っていた。我々は彼のような天才が大学から離れた事を惜しんだが、同時に彼の天才がアカデミズムから離れ一層羽ばたく事を祈った。我々は時たま権後の、都心であり得ないほど広い、屋敷に通って言語制作の進行状況を確認したのだった。訪ねてきた我々に向かって両親は権後がだんだん口を聞かなくなったと不安げな表情で語っていた。何でも口をパクパクするばかりで声すら発しないらしい。我々はそこに自らの言語を作り上げようとする権後の痛ましい苦悩を見た。やはり権後はと最悪の状況さえ思い浮かべた。我々は両親に案内されてアレクサンドリアの古代図書館のような家の中をとぼとぼ歩いて彼の部屋に向かった。そして部屋の前に着くと両親はドアをノックして権後を呼び出した。

「道男、お友達よ。お忙しい中あなたを訪ねてきてくれたのよ。早く出てきなさい」

 すると中からいきなり権後が出てきた。権後は両親に向かって口をパクパクさせ、そして我々の方を向いて同じ事をした。これを見て我々は顔を見合わせて頷いた。悲しい予感が当たってしまったのだ。あまりに天才であるが故に言語創造などという見果てぬ夢に迷って自分を失ってしまったのだ。我々が痛ましい思いで彼を見つめていると、権後は突然声を上げ、おいと驚くほど普通に話しかけてきた。

「両親どころか君たちまでその反応かよ。俺は今俺の言語を話したんだぜ。未だかつて人間の喋ったことのない言語だ。これは未来の言語だ。正直に言ってまだ原始人レベルの言葉しか出来ていない。文法だって全然ダメさ。だけどもう完全に言語の背骨は出来た。あとはこれに肉をつけ、脳をつけ、神経をつけ、人間の形にしていけばいい。そのうち君たちは見るだろう。この部屋で僕の国家が誕生するのを。僕はここで法律を制定し、社会を築き、文化を産むだろう。文明とは言語の誕生によって起こった。その文明が生み出した文学、哲学、美術、音楽、科学、化学、数学等現代文明において必要不可欠なものは言語がなければ生まれなかった。僕は今君たちに向かって未来の言語で話した。だが不幸にも僕の言語は君たちの聴覚の範囲内からはみ出していたようだ。恐らく僕は言語を生み出す過程で進化してしまったようだ。僕の言語に文字はない。信号のみで意思の伝達をする。しかしそれだけでは複雑な文章等伝えられないのではないかと君たちは問うかもしれない。だがそれは心配ない。何故なら僕の言語は脳の中のすべての記憶装置に伝達するものだからだ。僕の発する音は世界中の百科事典程の膨大な内容を一瞬にして伝えられる。そしてそれは消去するまで記憶装置に残り続けるものだからだ。なぁ、君たちも僕の言語を習得してみないか?僕と一緒に新たなる文明を築かないか。君たちは僕の親友だ。ならば僕の言語を伝達する資格は十分にある」

 この権後の誘いに我々は戸惑った。確かに権後は天才だが、今彼が話したことはなにやらニューエイジめいた胡散臭いものを感じる。それに我々のような凡才が彼の言語を習得し、彼と共に文明を築くだけの資格あるのだろうか。我々はしばらく考えさせてくれと回答を保留にしてまた訪問する事を誓った。

 それから一ヶ月後、我々は久しぶりに権後を訪ねた。何故間が空いたかというと、第一に我々の研究が急に忙しくなったからである。加えて院卒業後の教職も見つめなくてはならなかった。天才の権後ほど恵まれていない我々は大学に残るために教授たちに媚びへつらって生きていかねばならない。我々は日々研究し将来のために動き回っていた。

 我々は多少の罰の悪さを感じながら権後の家のベルを鳴らした。間もなくして権後の両親が迎えに来たが、その表情は暗かった。両親は二人とも口を揃えて息子がわからなくなった。完全に引きこもってしまい、私たちにパスポートまで要求するようになったと言った。それを聞いて我々は一ヶ月前に権後が言っていた事を思い出した。いよいよ国家を作り始めたのか。我々は両親に見送られながら権後の部屋へと向かった。部屋の前に立った我々は互いに顔を見合わせて頷き、そしてドアをノックした。

 突然聞こえて来たのは警報のような音であった。続いて何故か異様に辿々しい日本語でパスポートをドアにかざせというアナウンスか聞こえた。しかし我々のうち誰一人もパスポートなど所持していない。我々はドアの向こうの権後に向かって今パスポート等持っていない事を伝えそしてドアを開けるように頼んだ。しかし権後は我々の返事に答えず再び奇怪な音を出した後辿々しい日本語でこう言った。

「ワタシアナタノクニニセンセンフコクスルヨ。ワタシノブンメイノチカラデアナタガタヲキョウカスルヨ」


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